コロナ禍に問われる日本人の知恵

 コロナ禍になったからか、にわか自然科学者や、医者もどきが増殖している。ひとつの話題に「うがい」が意味あるかというのがあって、意味がないという人の論は、厚生労働省が、新型コロナに対するうがいの効果について、「世界的にうがいの習慣は少なく、科学的に確立されたエビデンス(根拠)はない」と説明するのに相乗りしているに過ぎない。しかし日本の厚生労働省は、「のどの調子を整えるために習慣になっている人もいる。とくに推奨はしていないが、否定するものではない」とはしている。

 「うがい」という行為単体での効果を、科学的に云々は、そんなことはどうでも良いとまで言わないが、日本人が続けてきた経験の方が大切だろう。

 大抵、うがいをする時、帰宅し、先ずは洗面所など鏡のある場所へ行き、手を洗い、自分の顔を見、コップに水、薬を入れ、がらがらっと上を向いてやり、吐き出し、鼻が出ればかみ、口元を洗う。  

 うがい単体よりも、こういうストーリー化された行為が重要だ。ギリシャ人は自己への配慮を、人の知恵に大切とした。

 うがいをする時、顔色、喉や首の筋肉の違和感、鼻腔の通りを知り、また手を洗い汚れも落としている。手だけならば、アルコールで洗うで十分だが、鏡を見て自分を調べる行為は欠落する。これが健康に資することは言うまでもない。

 なんでもファクトばかりを一面的に捉える還元主義は馬鹿らしい。理が先立ってばかりは、そもそもの全体を失うことも多い。

 何が良い、何がだめだと理が先立つ前に、自らを感じることが大事だろう。

2004/9/2 断章

倒錯的な性格ではないから、自殺する人を勝者だとは考えない。それでも世界には偉人にも自殺する人はあり、日本に至っては自死の美学もある。人はなぜ自らを滅するのだろう。第二次世界大戦で死んだ人が日本人で三百万人余りあるというが、それは丁度百年で自殺する人と同じであるらしい。つまりは日常も、百年をかけて緩やかな戦争をしているようなものである。
三島由紀夫、ロラン・バルト、川端康成、ミッシェル・フーコー、ジル・ドルーズ。自殺した文学者は多い。増大する自我の圧力が、存在する力を押し潰してしまうのだろうか。政治的な圧力で死ぬものもいるし、経済的な理由で死ぬものもある。しかし多くの場合、個人にとっての自殺は、自意識の消失点なのではないだろうかと、私は想像する。
過酷な土地に生きるものが常に存在する力を問われているとしたら、安寧のなかに生きる者は蓋し存在する力を問われない。想像する余力のある生活は羨望されると同時に、ある種の生き地獄のはじまりである。存在する力が限りなく弱いなら、自意識を知った瞬間に死んでしまうだろう。
自意識とは、限りない孤独の別名である。そこが思索の出発点であり、見えない他者を探していくプロセスのはじまりである。私はその他の誰でもなく、物でもなく、唯ここにあることの触覚である。その地点に留まり、生きていくことは難しい。
社会的なゲームのなかに身を投じていくことで私たちはひとつのピースとなり、大きな総体を築いていく物となり、自意識を忘れていく。また貨幣の力を信じている人が、自意識に潰されることはない。貨幣を稼いでいく限りは、正しい存在である。
自意識は魔物であり、甘美な誇りという毒で身体を蝕んでいく。時折魔物は身体を去り、やがて舞い戻る。常に働き、身体の力を高めて自意識を追い払うことこそ、唯一の対症法である。働かざるもの、食うべからずとは禅の言葉であるが、そういう暮らしに魔物は存在しない。怠惰、強欲、等、キリスト教のいう七つの大罪こそは、まさに魔物の好物である。

東日本大地震に。

人は、人を通じてしか、世界に触れられない。
だから世界の事象に人の名前をつけたがる。いうまでもなく、世界には人が介在しない事象もある。それを神と名づけてしまうのも、人が脆弱な存在である所以だ。
大地震のさなかで津波に飲み込まれ、または土砂に流され命を失った人々に祈りを捧げる。また辛い状況にさらされている被災者の無事を願う。
現在も危機にさらされている、勿論僕の家族を含んだ、東北・関東のひとびとは、やはり人の繋がりのなかに救いを求めていく。様々な流言、また停電、インフラの崩壊によるストレスを持った人々が、言葉を通じて人に及ぼして行くのは、善ばかりではない。インターネットというかつて存在しなかったインフラは、僕は特にツイッターを読んでいたが、僕がフォローしている限りでは、皆冷静で、また愛情に溢れていた人々だと思う。それでも、自分を含めて様々な流言に惑うし、また善かれと思って、嘘を流す人も少なくなかった。
政治家、特に首相は東京電力のマネージメントを罵倒したらしいが、皆は政府を罵倒したいだろう。それが無益なことは誰もが分かっているのに、人を責めようとする。日本のメディアの一部、また社民党の福島瑞穂代表は、電力の配布を地域単位でするべきではなく、病院等に細分化し、コントロールすべきだとか、また「友愛」で日米関係を壊した視点と同じ空論をほざき、現に懸命にやっている人々を間接的に愚弄している。もう人を責めるのをやめよう。石原首相は日本人の我欲に対する天罰と言ったそうだが、さすがに「天罰」というのは辛い。
僕は神の試練だと思う。僕らは脆弱な存在だ。だからこそ、僕らはきっと乗り越えて、次の地平に立つのだと深く信じている。

自動車・オートバイ・自転車 /不良自転車乗りの横行する現状

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東京の交通事情、特に自動車の運転について見ると、外国は勿論のこと、他の地域に比べてみると、真っ当であると思う。車線変更時はきちんと方向指示器を出すし、割り込みをさせてした際には、ハザードで挨拶する等、法規にはないマナーすら存在している。
バイク乗りになってみると、自動車を乗っている時とは違う交通事情に出くわすことが多い。バイクは自動車とは乗り方が違うので、自動車から見ると、マナー悪いなとか、邪魔だと思われているだろうなと感じることも少なくない。確かに、車線の変更は多くするし、ふらついているバイクは危ない。それでも自転車の無謀な運転には、閉口してしまう。
最近のバイクブームもあり、東京でも、スピードの出る自転車に乗っていながら(僕も昔からドロップハンドルのロードーレーサーを所有しているが)平気で進行方向を逆走してくる。または車道から歩道に移り、歩道から歩行者信号で飛び出してくる。または自動車信号で三車線道路をそのまま横断する。50CCバイクなら即時違反である。もはやなんでもありの状況だ。
警察はバイクをすぐに捕まえるくせに、金が絡まないと何もしないのだろうか。(バイクは一番の白バイの鴨である)まるで自転車は、善の化身でもと考えているのだろうか。そんなことをつらつら考えていたこの頃、面白い記事を見つけた。

都市部ではエコブームが追い風となり、高性能の自転車で通勤する会社員が増えた。それは結構だが、スピードを出しすぎ、周囲の確認もおろそかにした危険な暴走行為が後を絶たない。
 クルマの人身事故は減る一方で、自転車が絡む事故は右肩上がり。歩行者と衝突して死亡や重度障害を被らせた例すらある。それでも、刑事罰の重さゆえ、かえって自転車の「無法状態」が野放しとなっている矛盾。地域によっては、罰金の赤キップを切る前に、警告を意味するカードを手渡す警察官もいるが、まだ中途半端だ。
「現在、反則行為から除外されている自転車をこれに含め、かつ反則金の下限を自転車による反則行為に対応できる額まで引き下げるとともに、自転車の運転者に免許証に近い『登録証』を発行し本人の特定と反則行為の累計で反則金を納付させるようにすべきだ。交通ルールの啓蒙教育も必要」(同)司法ジャーナリスト
長嶺超輝=文 President誌

同じようなことを感じ、考えている人もいるのだ。重大な事故が多発してからでは遅いし、昔から自転車の窃盗にはみな罪の意識も軽い。まずは東京都だけでもいいから、自転車も登録免許制にして(試験はいらないが)警察が管理してはいかがだろう。警察が好きなわけではないけれど、まあ点数にも、金にもしていいから、どうにか対応してほしいと、都民として思う。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20100511-00000001-president-bus_all

技術の革新による新たな憧れと、過去の機械に対する憧憬

260636

ポルシェが3月のジュネーブモーターショーで披露したハイブリッドスポーツスタディ、『918スパイダーコンセプト』。ポルシェの重役は米メディアの取材に対して、「市販する方向で固まりつつある」と明かした。
918スパイダーコンセプトは、2シーターオープンボディに、プラグインハイブリッドシステムを搭載したスーパーカー。ミッドに置かれるエンジンは、レーシングカーの『RSスパイダー』をルーツとする3.4リットルV型8気筒ガソリンで、最大出力は500ps以上。前後アクスルに置かれるモーターは、最大出力218psを発生し、トータル718ps以上という圧倒的パワーを獲得する。
http://response.jp:80/article/2010/04/27/139728.html
《森脇稔》response

ポルシェブランドから、電動自動車のスーパースポーツが実際に公道に現れる時代になったのだ。それでも内燃式エンジンの独特の世界観に魅力を感じる僕は、古い世代に属するのだろう。
然し、ホンダのCR-Zにも、この自動車にも、時代の先駆者というリーディングイメージはあって、勿論魅力には思うのだが、やはり、トランジスタラジオ、LPレコード、銀塩カメラ、2ストロークバイク等、時代の表舞台を去った魅力的な機械には、暖かさというか、魂があったのだという戯言を思う世代は、なにも同時代に体験した人ばかりでもないらしい。
20代で2ストバイクに乗る者もいるし、銀塩写真に没頭している者もいる。そういう過去の機械に対するフェティシズムとは、何なのだろうかと、そのうちしっかり考察してみたい。

成人した子どもの罪を、親が詫びる必要があるのだろうか。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090828-00000527-san-soci
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世間を騒がせている芸能人の麻薬関連の事件。ワイドショーも、スポーツ新聞も最高の報道ネタを提供され、視聴率も、販売部数も伸びていることだろう。不景気な世の中には、スキャンダルのような麻薬が必要なのだなと、半ば呆れていたところ、高相容疑者の父親が詫びたという記事を読んだ。
成人(しかも40歳を過ぎた!!)子どもの罪を親が詫び、またネットのリアクション等をみると、親の責任を追及しているコメントも少なくない。日本はどうやら、近代国家という理念を理解していない馬鹿の巣窟らしい。<近代国家とは、憲法および法に基づく、国家と個人の直接的な関係と社会の均質的画一化である>
少なくとも、成人が犯した罪に関し、親が追及されるのは、甚だ「個人」というものが理解されていないのだなと、馬鹿らしくなるし、勿論、罪が違う(例えば、同居している家庭内で息子が監禁事件を犯したような類)ならば、そういう指摘も分かるが、麻薬の使用などという、まったく個人の倫理観に基づく犯罪について、こういう追求をするとは、村社会=百姓根性以外の何物でもない。すぐに連帯責任とか、家族の責任とか、責任所在を曖昧にするくせがある。
保護者責任は、未成年までである。(しかも成人を18歳にしようと機運があるくらい)しかし道義的な責任は一生追及される。家族ぐるみ、刑罰よりも社会的な制裁となる。日本はそんなレベルの国(前近代精神)でいいのだろうか。
もう少し、「個人」であり、「責任」を明確にするべきであり、感情に流されるばかりではいけない。裁判員制度もいいけれど、そういう基本的な認識を啓蒙していくべきではないだろうか。

大学は出たけれど…コンビニ大学の増殖と画一化する若者

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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090806-00001068-yom-soci
今春の大学への進学率が現役・浪人合わせて初めて5割を突破したことが6日、文部科学省の学校基本調査(速報)でわかった。
短大を含めた進学率も56・2%と過去最高を更新。志願者に対する入学者の割合は92・7%に達したが、「大学全入」時代には至らなかった。同調査によると、今春の大学への進学者は60万8730人となり、昨春より約1500人増え、進学率は1・1ポイント上昇して50・2%だった。
進学者数は、調査項目に加わった1954年度(13万5833人)の4・5倍。進学率は、94年度に30%を超えてから徐々に増加し、この15年間で20ポイント増えたことになる。

「駅弁大学」という揶揄が出来たのは、戦後まもなくジャーナリストの大宅荘一氏が当時のGHQのすべての県に国立大学を新設する政策に対する批判からだそうだが、現在では、そんな話を遥かに超えて50%も進学しているのかと、甚だびっくりした。もはや駅弁どころが、「コンビニ大学」である。僕が80年代に大学生だった頃は、確かに30%くらいしか進学していなかったし、周りを見ても、高卒の人間も少なくなかった。
最近はニートだとか、ゆとりだとか騒がれているが、こういう現状なら仕方ないのかと思う。聞いたこともない大学が増加しているのも、そういう訳だったのかと納得する。受験生の頃、日東駒専ラインという言葉があったけど、いまはどういうボーダーがあるのだろうか。
受験というのは、ある意味社会のイニシエーションとなっていたのだけど、現在では様々なセーフティーネットが張り巡らせれた挙句、学位は簡単に手に入る。大学の新設は、結局国民をスポイルし、低俗化させているのだと思う。優秀な教員がそれほどいる訳でもないし、またどういう大学であっても、大学を出たという矜持だけが邪魔をして、様々な職業に就く多様性は否定されるだろう。逆には、それなりの矜持を持って邁進するからこそ、エリートが社会に貢献できるのだとも思う。
大学の増加に応じて企業の門戸が広くなるわけでもない。大学を出ても彼らが考える職で働けないと分かると、画一化した頭で親に抗弁する、「そんな仕事じゃ働けない」と。蓋し、(専門の学部以外は)彼らのほとんどは、第一次産業も、第二次産業も考えていないだろうし、第三次産業を目指しているはずである。
参考:大学生の就職希望ランキング
希望の就職ができないと、専門学校に行く人も少なくないらしい。
名ばかりの高学歴は害でしかない。こういう教育状況を放置した文部科学省に責任があると思う。少なくとも、今後はこういう画一的な若者をつくるのではなく、高校程度の年齢で職業に関する選択をさせるべきだ。格差をなくすという言葉は綺麗だが、コンビニ大学出を増産することが、それが彼らのため・日本のためになるのだろうか。

リレンザというインフルエンザの特効薬を摂る。

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インフルエンザというものに罹患した。近頃メディアでは鳥だなんだと騒いでいるし、怖い怖いと言われているから医者からインフルエンザですと言われた時は、嫌な感じがした。鼻から長い綿棒を突っ込まれ、二十分くらいで結果が出る。A型という箇所に+の記号が出ていたのだ。
ラムズフェルド氏が大株主であった製薬会社のタミフルも、いまではA型のソ連変異株には効かないらしい。そういう説明もなく、リレンザという薬を渡された。風邪をひいていた直後に感染したので、いままでの薬を飲んでいいかというと駄目だと医者は言う。38℃の熱のまま家に帰ると、そのリレンザというものを吸った。
リレンザはタミフルのように経口では効かず、鼻と口の粘膜から摂取する。するとウイルスの増殖を阻害するらしい。吸うのは早目がいいという。特製の容器で穴をあけると、吸い込むたびに粉が喉に付着する。そういえば異常行動とかあったよなと、ふと思う。ちょうど家には自分しかしない。しかし若くないのでベランダから飛び降りる体力もない。熱が高いと少し頭の中のイメージがぼうとしているのは仕方なく、そのまま眠った。しかし起きてみると、ひどく頭が痛い。ネットをみると、副作用に頭痛、悪心等が羅列されている。
その後一日経ち、確かに回復しつつある。しかしあと三日リレンザを吸わなくてはならない。インフルエンザは辛い。しかし新薬というのも辛いものだ。

犯罪をめぐる神経症的な糾弾を憂う。

性犯罪、子供をめぐる犯罪に関する神経症的な批判が多くなっているように思う。
性犯罪者は去勢しろとか、死刑にしろとか、まるで検察が容疑者を起訴する前に、断罪するネット社会の現状。まるで日本が昔の牧歌的な状況から変質したかのような誤解が駆け巡り、国家権力をむやみに信用する人々を増やしていく。毎日犯罪の記事が告知されると、ネットには厳罰化を求める声(状況が分からず、しかも微罪であっても)が増えてやまない。
裁判員制度が開始される前に、このように犯罪者を無闇にスケープゴートとし、同時に管理社会を犯罪者でない人まで窮屈にさせる社会でいいのか考え直すべきであると思う。
ネット上で統計を探してみると、子どもの犯罪被害データーベース という興味深いサイトがある。発生件数を比べてみても、殺人は1960年と比較し、80%減少し、また性犯罪は、90%減少している。最近のTVの感情を煽るスキャンダラスな報道が、まるで治安が悪化し、人の心が荒んでいるというイメージを増幅しているかが分かると思う。
私は犯罪は憎むべきだし、重罰も必要だとは思う。しかし、すべてに関して監視を厳しくし、しかもポルノの所有まで断罪し、表現と思想の自由まで奪っていく傾向自体が、病んでいることを分かるべきだと思う。
子供たちは危険だから外で遊べないのだろうか。知らない人と挨拶すると危ないのだろうか。『三丁目の夕日』の昭和三十年代は、人間がみな暖かかったなどというのは大嘘である。当時の小説を読んでみれば分かる。人間が闇を抱えて生きている現状に変りない。
今問題なのは、闇を理解しようと出来ない心の未成熟なのではないだろうか。人を孤立させていく、窮屈な世の中ではなく、自由な世の中にしていくべきである。何故異常な事件があると、すべてを封鎖するのだろう。学校、家庭、地域社会。心の鎖国をこそ、自殺者を増やし、GDH(国民幸福指数)の低い社会を生み出しているのではないだろうか。

火星へ人が住む日が来るのだろうか。

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バイキングが火星探索をした映像を見、驚愕したのは小学生の頃だった。三十年後の現在、宇宙開発は米ソの面子の競争から、経済的な実質を追求する時代へと変化しつつある。
今回米は探査衛星・フェニックスを火星に派遣した。今回の調査して水資源が確認されたなら人の長期滞在が可能になるだろう。火星には、蓋し様々なレアメタルを含む鉱石等、地球には少ない天然資源が埋蔵されている。僕が生きている間に火星へ移住することはないだろうが、次の世代には火星に実験的なコロニーが出来るかもしれない。ようやく開発を進めていく技術と経済的な意義が、確実に生まれつつある。
遠い星からやって来る電波にノスタルジックな響きを感じる世代ではなく、宇宙にリアリティを感じる世代へと世界は変わっていくのだろう。