解説『人の魂を浚っていく、蟹の群れを底引き網が根こそぎ浚っていってしまうように。それでも人の魂は、海底に潜む蟹のようにしか生きていけない』

――記憶と責任の海底で、人はなぜ生き延びてしまうのか

<私家本>

本作の長大なタイトルは、比喩である以前に、すでに倫理的宣言である。「人の魂を浚っていく」という暴力的な運動と、「それでも蟹のようにしか生きられない」という諦念。その二つが一息に結ばれたこの一文は、救済や成長、和解といった物語的快楽を、最初から読者に許さない。

物語の中心にいる津田は、破綻した人生を生きる人物ではない。広告代理店に勤め、家庭を持ち、夜には皇居を走る。彼は社会的には「問題のない側」に属している。しかし本作が描くのは、問題を起こした者ではなく、問題を見ないことで秩序を維持してきた者の不安である。

同窓会という平凡な場で語り出される小学校時代の記憶――教師による逸脱、少女の転校、沈黙を強いられた空気――は、三十年の時間を経てなお回収されない。ここで重要なのは、暴力が再発見されることではない。それが、長いあいだ「なかったこと」として社会の底に沈められてきた事実である。

津田は正義の告発者ではない。彼は、行方不明になった同級生・神尾(山根)を「気にしてしまう」だけの男だ。連絡を取り、住所を辿り、管理人に話を聞く。その行為は誠実に見えるが、同時にどこか居心地が悪い。なぜなら津田自身も、かつて起きていたことを「知らなかった側」「見なかった側」に属しているからだ。

本作における社会の比喩は明確である。それは底引き網だ。底引き網は、善悪も、罪も、無垢も選別しない。海底の生を一括して掬い取り、破壊する。学校制度、再開発される街、更新されていく秩序――それらはすべて、誰の魂が失われたのかを記録しない装置として機能している。

そのなかで生き残った者たちは、蟹のように海底に潜む。蟹は前に進まず、横に這い、殻を背負い、捕食される存在だ。津田もまた、主体的に未来へ向かう英雄ではない。彼は記憶の海底を横歩きし、ときおり真実の光に照らされては、また暗がりへ戻っていく。

この小説が特異なのは、ここからケア(世話・心配・配慮)という行為そのものを問いに晒す点にある。津田と妙子の行動は、現代的な言葉で言えば「アダルトナーシング」である。自立しているはずの他者を気にかけ、支えようとする行為。しかし本作は、それを倫理的に称揚しない。

ラカンの理論を参照すれば、ケアはしばしば「他者の欲望を欲望する」構造を持つ。津田は神尾を救おうとしているのではない。彼は、神尾という不在をめぐって動いている自分自身の位置にとらわれている。行方不明の神尾は、欲望を駆動する〈対象a〉として機能し、決して回収されない。

アダルトナーシングの最大の危険性は、それが善意の顔をしている点にある。世話する主体は、相手の欠如を埋めるふりをしながら、無意識のうちに快を得る。ラカン的に言えば、それは享楽(ジュイサンス)であり、そこに入り込んだ瞬間、ケアは暴力へと転じる。

本作で神尾は、次第に実体を失っていく。虚偽の住所、存在しない居住記録、回収されない痕跡。彼女は「語られる存在」ではなく、「語るための空白」となる。ここにおいてケアは、相手を沈黙させる力として働く。津田は介入しすぎないが、それでも神尾を「意味づけの対象」にしてしまう。

だからこそ、この物語には救出も解決もない。誰も完全には救われない。それは失敗ではなく、本作の倫理である。「それでも人の魂は、蟹のようにしか生きていけない」という一文は、他者を完全に救えないこと、欠如を埋められないことを引き受けた主体の姿を示している。

『冥王星』が〈周縁に追放された存在〉を描いた作品だとすれば、本作は〈周縁にいながら加担してしまう者〉の物語である。善でも悪でもない、多数派の位置。その曖昧で不快な場所を、貴一は逃げずに描いた。

この小説は、読者に理解や慰めを与えない。代わりに、理解していなかったこと、黙って通り過ぎてきたことの量を突きつける。その不快さこそが、本作の文学的誠実さである。

蟹は救われない。
だが、蟹であることを否定しない文学が、ここにある。

――〈引きこもり〉と〈救済〉の神話を解体する、冷えた優しさの物語『冥王星』

<私家本>

貴一の『冥王星』は、いわゆる「社会派小説」でもなければ、「福祉小説」でもない。引きこもり支援、NPO、女性ボランティア、医師、母親といった現代的な題材を用いながら、本作が徹底して描いているのは、人間が他者の〈世界〉に触れてしまったときに生じる、取り返しのつかない変化である。

物語は、薄暗いバーでの幻想的な邂逅から始まる。影のような男が語る冥王星の「格下げ」は、科学史の逸話であると同時に、本作全体を貫く主題――存在の序列化と、その暴力性――を予告する神話的導入である。冥王星とは、太陽の光が届かぬ場所にありながら、かつて「惑星」と呼ばれていた天体だ。つまりそれは、かつて中心に属していたが、周縁へと追放された存在の象徴である。

主人公・朋子もまた、そうした周縁に生きる人物だ。キャバクラで働き、恋愛関係は常に不安定で、社会的な自己肯定の軸を持たない彼女は、引きこもりの男性・佐々木君の「話し相手」として雇われる。しかし重要なのは、朋子が「救済する側」として描かれない点である。彼女自身が空虚で、選ばれることに慣れ、しかし決して「他者を受け入れる」主体ではなかったことが、物語の随所で露呈していく。

佐々木君の部屋に敷き詰められた「ドーナツ」は、本作でもっとも秀逸な比喩装置だろう。スタンレー・ミルグラムの「6次の隔たり」を、彼はドーナツの輪として語る。だが佐々木君にとって重要なのは、遠くへ繋がる理論ではなく、最初の一つの輪=唯一触れうる他者である。朋子はその「ひとつめのドーナツ」となり、彼の世界の全重量を一身に引き受けてしまう。

ここで本作は、安易なヒューマニズムを拒否する。支援とは何か、優しさとは何か、という問いは、徐々に侵食へと変質していく。朋子は佐々木君を「目覚めさせた王子様」だと周囲から称揚されるが、その称揚こそが最も残酷だ。彼女は誰にも頼まれていない役割を背負わされ、逃げ道を奪われていく。

後半、海へ向かうロードムービー的展開は、物語を決定的に異界へと滑らせる。かつてテニスの「ホープ」だった佐々木君の過去、廃墟のドライブイン、モーテル、トンボ3という異形の人物――これらは現実でありながら、現実の皮膚を一枚剥いだ場所に存在する。ここで朋子は明確に恐怖を感じるが、それでも逃げ切れない。なぜなら彼女自身が、すでに冥王星の重力圏に捕らえられているからだ。

『冥王星』が優れているのは、誰も完全には救われない点にある。佐々木君は外へ出る。しかしそれが幸福かどうかは語られない。朋子もまた成長譚の主人公にはならない。残るのは、「受け入れる」という言葉の重さと、その不可逆性だけだ。

冥王星とは、闇の中にあり、富を司る神プルートの名を冠した星である。光は届かないが、そこには確かに何かが眠っている。本作が掘り当てたのは、社会の闇ではない。他者を救おうとした瞬間に、人が失ってしまう自己の輪郭である。

貴一はこの小説で、現代的テーマを用いながら、きわめて古典的な問い――「他者とは何か」「関係とはどこまで許されるのか」――を、冷静で残酷な筆致で提示した。『冥王星』は、優しさを疑うための、静かで深い文学である。

『カフワの椅子』の魅力とは

著者:貴一
出版社:沖積舎

日常の表面を透過する“光”としての物語

『カフワの椅子』は、主人公が「コーヒーショップをはじめる」という一見ありふれた物語の枠組みを装いながら、その中に人間の成熟と感受性の深層を織り込んだ静かな傑作である。物語は、日常と非日常を分かつ境界線に鋭敏な感性を持つ主人公の視点を通して展開されるが、そこに反復するように繰り返されるのは“バランス”という概念である。

まず、タイトルにある「カフワ」という言葉が示すように、コーヒーという日常の飲み物はこの作品にとって単なる背景ではない。それは、時間と空間の感受性を調整し、人と人との柔らかな邂逅を引き寄せる媒体として機能する。読者は一杯のカフワを淹れる行為とともに、主人公の内面世界へと自然に引き込まれる。

盲目の老婆という寓話的存在

特筆すべきは、物語に登場する盲目の老婆だ。視覚を欠いた人物という設定は、しばしば象徴的な意味を帯びるが、本作ではそれが過度に象徴的にならず、日常世界の中に溶け込んでいる。老婆は視覚ではなく“他者との共感”という感受性で世界を捉え、その言葉はまるで色のスペクトルのような語彙で語られる。それは、本作が単なる成長譚にとどまらず、人間の知覚と経験の仕方そのものを問い直す作品であることを示している。

老婆との対話を通じて、主人公は自らの感受性と向き合い、自分が望む場所へと少しずつ近づいていく。このプロセスは決して劇的ではない。だが、その静かで確かな変化こそが、本書が持つ最大の魅力であり、読者の心に柔らかい余韻を残す。

文体と余韻:言葉の持つ“間”を読む

文章はいたって透明だが、その中に意図的に切れ目として残された“間(ま)”がある。読者はその間を自らの経験や感性で埋めることを求められる。これは、作者が読者に起こるべき解釈の余地をゆだねている証しであり、文学の可能性を広げる挑戦でもある。

たとえば、カフワの香りが漂う描写一つをとっても、そこには味覚・嗅覚・記憶が絡み合う複層的な世界が映し出される。日常の何気ない瞬間が、時に叙情的な詩のような輝きを放つ所以だ。

『カフワの椅子』は、誠実で優れた物語であると同時に、私たちの“生きるという体験”そのものを再考させる作品でもある。喧噪から切り離された静かな時間、他者と自分との間に漂うささやかなずれ、そしてそこに生まれる共感と理解―。この物語は、現代という速度の速い世界にあって、むしろ立ち止まり、呼吸し、世界と対話することの尊さを思い起こさせる。

読む者に寄り添いながら、同時に重層的な問いを投げかけるこの小説は、ゆっくりと、しかし確実に読者の内面に作用する――そんな稀有な文学体験を提供してくれるだろう。