「定住する母権——ノマド資本主義への思想的応答」

1章:序論――ノマドの自由という罠

「自由」はいつから、これほど暴力的な言葉になったのだろうか。

かつて「ノマド」という語は、ドゥルーズ=ガタリの思想において、国家や制度、固定化された主体性に対抗する概念として提示された。それは、中心なき運動、コード化を拒む逃走線、流動と差異を尊ぶ解放的象徴であった。ノマド的であることは、「支配」や「所有」に抗し、「なにものにも回収されない生」を希求することであり、近代的主体の輪郭に亀裂を入れるラディカルな思想的企てだった。

だが21世紀の現在、ノマドという言葉は様相を一変させている。「デジタルノマド」「グローバル人材」「ボーダーレス社会」など、移動を是とし、どこにも根ざさず、すべてを選択可能とするライフスタイルは、現代資本主義においてむしろ称揚され、祝福されている。だが、その自由は果たして実体を持つのか。それは「選択」の名を借りた生存戦略ではなく、「選択肢からの退路を断たれた存在」の美化にすぎないのではないか。

本稿が問題にするのは、まさにこの点である。すなわち「ノマド的自由」という一見開放的な理想が、いかにしてグローバル資本主義と結託し、「定住」や「共同体」や「他者との関係性」を否認し、搾取と孤立の構造に人間を封じ込めてきたのか、ということである。

ノマドはもはや、逃走者でも異端者でもない。むしろ、資本の側がもっともノマド的であり、もっとも脱領土化され、もっとも無責任である。プライベートファンド、クラウドベースの多国籍企業、タックスヘイブンを駆使する投資体――それらは場所を持たず、労働力にも税にも法にも縛られない。そしてその論理は、デジタルノマドと称する労働者にも共振している。根なし草のように都市間を漂い、アルゴリズムに管理される収入に依存し、医療も教育もコミュニティも持たぬまま、「個人として生きること」が強いられている。

こうした状況において、あえて私たちは「定住」の倫理に立ち戻るべきではないだろうか。逃走することではなく、留まること。他者と空間を共有し、労働と生活をめぐる制約を受け入れながら、それでもなお相互扶助とケアに基づいた共同体を築くこと。その実践を思想として回復すること。それこそが、ノマド資本主義に対する最も根源的な抵抗ではないかと私は考える。

ここで提案したいのが、「母権共産社会」という構想である。これは、伝統的な意味での「女性支配」を意味しない。むしろ、資本主義が抑圧してきた「再生産」「ケア」「非合理性」「欠如の受容」などの母性的原理を中心に据えた社会のあり方である。そこでは、競争や拡大、所有といった父権的資本主義の価値が相対化され、相互扶助や生存の持続性といった価値が再評価される。

この構想は、単なる社会制度の提案ではない。それは、言語・無意識・倫理・空間・経済といった多領域にわたる価値転換を求める思想的実践であり、資本主義的近代を根底から問い直す哲学的プロジェクトである。

以下、本稿ではまず、ノマド思想の理論的系譜とそれが資本主義に回収されてきた過程を検証する(第2章)。ついで、ノマド資本の構造的暴力――とりわけプライベートファンドや脱法的な金融装置が国家や個人に及ぼす影響について考察する(第3章)。その上で、定住を倫理的に再構成する思想の可能性を、ドゥルーズ=ガタリ、デリダ、ラカンらの理論を援用しながら提示し(第4章)、最後に、母権的価値に基づいた脱資本主義的社会の構想を提言する(第5章)。

そして結語として、欠如を回避せず、むしろそれを引き受け、他者とともに生きる倫理としての「定住」が、いかにして資本主義以後の生の地平を切り拓くのかを論じたい。

2章:ノマド思想の系譜と変質

ノマドという概念は、現代思想において魅力的なイメージを担ってきた。とりわけジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、『千のプラトー』(1980年)において、ノマド的主体を「国家装置」や「領土国家」に抗する脱中心的存在として称揚した。彼らが提示するノマド論は、定住的で階層的な「樹状構造」に対して、根や中心を持たない「リゾーム」としての思考を象徴していた。ノマドはコード化を拒み、定義を攪乱し、国家による一元化を逃れる線的存在である。

こうした思想は、70年代以降のポスト構造主義の自由な気風と相まって、多くの芸術家や社会運動家に影響を与えた。固定的なアイデンティティに抵抗し、境界線を越え、自己を再帰的に生成する存在――それがノマドの理想像であった。フェミニズムにおいても、リュス・イリガライやジュディス・バトラーらが、身体や性のノマディズムを再解釈し、性差を絶対視する規範に揺さぶりをかけた。

しかし、21世紀に入り、この「ノマド」という語は危うい変質を遂げることになる。それは「思想的対抗概念」から、「制度的に歓迎される生き方」へと転落する過程である。デジタルノマド、フリーランス、パラレルワーカー、リモートネイティブ……かつて脱中心性の象徴であったノマドは、いまやグローバル資本主義の戦略的消費者/労働者として再構成されている。

この変質は偶然ではない。むしろ、資本の自己運動性にとってノマド的属性こそが都合よかったのである。企業は雇用を流動化し、インフラを持たずに展開し、労働力に責任を負わずに利益を最大化できるモデルを採用する。そのためには、固定的な共同体・国家・倫理に縛られないノマド的主体が必要だった。ノマド思想は、資本の手により反転され、制度の中に吸収されたのだ。

さらに深刻なのは、このノマド的存在が「主体の空洞化」と直結している点である。ラカン的な視点からいえば、主体は言語と象徴の網の目の中で「欠如」として構成される。欠如を抱え、他者との関係性において自己を生成する存在が人間である。しかし、資本主義が作り出すノマド的主体は、この欠如を否認する。どこにも属さず、いつでも接続され、すべてが選べるとされるこの「完全性」は、むしろ主体の喪失を意味する。

また、デリダの脱構築的ホスピタリティ論においても、ノマドと「他者」の関係性は重要な位置を占める。真のホスピタリティとは、予期せぬ他者を無条件で受け入れることだとデリダは言う。しかし、現代のノマドはどうか。他者を訪れるのではなく、他者を消費する――土地、文化、身体、労働力までもが移動の対象であり、責任なき接触の連鎖に過ぎない。これはもはや、倫理でも自由でもなく、従属の装置である。

したがって、本来解放の象徴であったノマドは、グローバル資本主義においてはむしろ「最も効率的に支配される主体」へと転倒している。資本はノマド的であると同時に、ノマドを再生産する。資本こそが最も流動的で、最も脱領土化され、最も抽象的な存在である。ノマド思想の核心が資本によって奪取されたこの状況において、もはや「逃走線」は解放ではなく、資本の運動線と重なってしまっている。

こうした状況下で、我々はあらためて「定住」の思想的意義を問い直す必要がある。逃走することよりも、引き受けること。空間や他者に対する責任を抱えること。母権的共同体の構想は、その「根ざし」の価値を再評価する試みである。定住とは、国家への回帰でも郷土主義でもない。それは、ケア、再生産、相互扶助といった「生の基盤」を思想の中心に据える営みである。

次章では、このようなノマド資本の暴力性、特にプライベートファンドやグローバル金融が国家や個人の生活空間をどのように侵食しているのかを検討する。

3章:ノマド資本の構造と暴力

近年、グローバルな資本移動の中核を担うのは、国家や土地に根ざさない「ノマド資本」である。かつて資本は、工場や土地、労働力といった物理的基盤に依存していた。しかし21世紀に入り、その基盤は一気に抽象化され、脱領土化された。とりわけ、プライベート・エクイティ(PE)ファンド、ヘッジファンド、ソブリン・ウィールズ・ファンド(国家系ファンド)などに代表される金融装置は、物理的制約を超えて国家の制度、地域の生活、個人の労働までをも収奪する機構となっている。

プライベートファンドの構造は特異である。それは一国の法制度に拘束されず、しばしばタックスヘイブンやオフショア口座を通じて多層的な匿名性を保持しながら、企業やインフラ、さらには公共資源に対して投資=買収を行う。そしてそれは単なる投資ではない。多くの場合、短期的利益を目的として企業の分割・リストラ・設備売却を実行し、雇用を破壊し、地域経済を空洞化させたのち、利益だけを回収して撤退する。このような「バイアウト型資本」は、ノマド的であるがゆえに、いかなる倫理的責任も社会的持続性も負わない。

さらに問題なのは、これらノマド資本が国家の統治能力そのものを侵食している点である。財政危機に陥った国家は、IMFや世界銀行の構造調整プログラムのもと、社会保障や公営企業の民営化を迫られる。水道、電力、教育、交通など、かつては市民の共有財産とされたインフラが、外資系ファンドの手に渡る事例は枚挙に暇がない。ギリシャ危機後の公共財売却、アルゼンチンの電力インフラの民営化、東南アジア諸国の交通網の外資支配など、それらはもはや「投資」ではなく、「略奪」と呼ぶべきである。

こうした構造の中で、「国家」はもはや市民の生活を支える装置ではなく、「投資可能性のある経済体」として再編されている。国民は「人間資本(human capital)」として評価され、年齢、教育歴、所得ポテンシャルといった指標で市場化される。住宅ローン、学資ローン、生命保険――これらはすべて、将来収益を担保にした「個人信用装置」であり、個人の身体と時間はすでに金融の対象となっている。

このような資本の振る舞いは、ラカン的視点から見ると、「欠如を否認するサディズム」として捉えられる。主体とは、本来「欠如」を抱えた存在である。ラカンによれば、欲望とは決して充足されないものであり、言語によって構造化された象徴秩序のなかで、人間は常に「何かが足りない」状態を生きる。しかし、資本はこの構造に真っ向から反する。「すべてを手に入れられる」「すべてを計算できる」という幻想を売りにし、欠如を否認し、享楽(jouissance)の全面展開を行う。

その果てに待つのは、人間の全商品化である。資本は、もはやモノだけでなく、「関係性」「感情」「時間」「予測」をも取引対象に変える。ケアワーカーや保育士の労働はAIと計測装置に置き換えられ、恋愛や性もプラットフォーム上のスコアとして市場に載せられる。アルゴリズムは、何を「好きになるべきか」「評価するべきか」を先回りして演算する。

つまり、ノマド資本とは、物理的な力の行使を必要としない、きわめて抽象的な暴力である。法を超え、場所を持たず、数式とコードによって世界を組み替えるこの装置は、従来の権力よりも遥かに非人格的で、しかも不可視である。

このような資本主義の形態に対して、いま私たちが取るべき態度とは何か。それは単なる制度改革や法規制では足りない。むしろ、「根ざすこと」そのものが抵抗であり、「責任を持つこと」「他者と応答すること」が、資本に対する倫理的反抗の最前線になるのではないか。

次章では、こうした資本主義的脱領土化に抗する思想として、「定住」――すなわち、土地・共同体・他者との関係性に根差した存在の再構築――について検討する。

4章:定住という倫理的再構築

「定住」という言葉は、現代においてしばしば時代遅れの、保守的で閉鎖的な価値観と見なされがちである。国境や共同体、伝統的生活様式を賛美する語として、ナショナリズムや排外主義と結びつけて理解されることが少なくない。しかし、本稿でいう「定住」はそのような血縁主義的な郷土観を意味しない。それはむしろ、資本主義的ノマディズム=責任なき流動性に抗して、「関係性にとどまること」「制約を受け入れた上で応答すること」としての倫理的実践である。

定住とは、単に同じ場所に住み続けることではない。それは、空間との関係を深く編み直し、自然・他者・歴史といった複数の時間軸を引き受ける態度のことを指す。たとえば、土を耕すという行為は、即効的な収穫を求める資本の時間とは異なる。そこには土壌、気候、風土といった不可制御な要素が含まれ、自然への忍耐と共感が求められる。これは、予測と制御を至上とする資本主義に対する根源的な異議申し立てである。

哲学的に言えば、定住とは「欠如を抱えた存在として、他者とともにあること」だ。ラカン的に言えば、我々は常に象徴界=言語の秩序の中で、何かを失いながら生きている。「すべてを持っている主体」など存在しない。だからこそ、他者を必要とし、応答を行い、社会的な関係を築いていく。ノマド的資本主義は、この欠如を否認し、完全性の幻想を提供することで主体を宙吊りにする。しかし、定住的主体は、むしろその「足りなさ」にこそ価値を見出し、共同性を構築する基盤とする。

ここで注目すべきは、イヴァン・イリイチの提唱した「共通資源(commons)」という思想である。彼は、産業化と制度化によって破壊された自律的な生活圏の再生を訴え、地域に根ざした教育、医療、労働のあり方を提唱した。イリイチにとって、真の自由とは「制限のなかでの選択」であり、定住はそのための倫理的・物理的前提であった。ここでいう定住は、「逃げないこと」「地域とともに悩むこと」「再生産を担うこと」といった、ケア的価値の具現である。

また、マレー・ブックチンの「社会的エコロジー」も、定住という思想の深化に資する。彼は、エコロジーを単なる自然保護の問題にとどめず、生活空間と政治空間を再統合する試みとして捉えた。ブックチンにとって、「自治」は自然環境と都市生活を調和させる実践であり、それは一過性の運動ではなく、定住に根差した構造的変革であった。つまり、エコロジー的社会とは、モビリティと利潤ではなく、「暮らし」と「関係」を優先する構造への転換を意味する。

さらに、デリダが晩年に論じた「ホスピタリティ(歓待)」の思想も参照されるべきだろう。彼は、「他者に対して開かれた家(場所)」をホスピタリティの理想とし、見知らぬ他者を迎え入れる定住空間の倫理を重視した。このホスピタリティは、無条件であると同時に、他者を迎える責任を前提とする。「定住」とは、閉じこもることではなく、むしろ「他者に開かれた応答責任の空間」である。

このように考えると、定住は決して保守主義的ではない。むしろ、ノマド資本主義の非倫理性に対して、他者との関係性を根底から問い直す急進的実践である。居住すること、育てること、支えること、引き受けること――それらはすべて、資本主義が「非生産的」として切り捨ててきた価値の回復にほかならない。

そして、この定住的倫理は、「母性」と深く結びつく。母性的とは、女性であることではなく、「育むこと」「時間をかけること」「他者を中心に置くこと」といった倫理的性格である。ここに、次章で論じる「母権共産社会」という構想の根幹がある。

次章では、資本主義に否定されてきた母性的価値を社会構造の中心に据えた思想的提案として、「母権共産社会」の可能性を提示したい。

5章:母権共産社会という思想的構想

「母権共産社会」という語は、多くの読者にとって耳慣れないものだろう。それは、伝統的な共産主義でも、単なるフェミニズムでもない。むしろ、本稿で提案するこの概念は、資本主義によって抑圧され、軽視されてきた「母性的原理」を倫理・経済・社会の中心に据えなおすことで、新たな共同体の可能性を思想的に構想しようとする試みである。

まず、「母性」をあらかじめ誤解から救い出す必要がある。ここでいう母性は、決して生物学的な性別や家族制度に閉じられた概念ではない。それは「ケア(care)」「再生産(reproduction)」「関係性(relationality)」「持続性(sustainability)」といった価値群を象徴する文化的・倫理的原理である。この原理は、20世紀的な「生産と拡大の経済」=父権的資本主義の論理に対し、根源的な批判と対抗の契機を内包している。

資本主義は、成長、競争、利潤、効率を価値の基盤とするが、それは常に誰かの「無償のケア」を搾取することで成り立ってきた。家事、育児、介護、情緒的労働――それらは女性に押しつけられ、見えない労働として資本の外部に追いやられてきた。ナンシー・フレイザーが指摘するように、資本主義は常に「ケアの不均衡」を前提として展開される体制であり、この矛盾を抜きにしていかなる経済成長も存在しない。

母権共産社会とは、この「不可視化されたケアの空間」を社会の中心に戻す思想である。そこでは、再生産が単なる個人の私事ではなく、社会的・経済的基盤として位置づけられ、ケア労働は無償の献身ではなく、共有される責任として制度化される。たとえば、地域ごとの共同保育所、ケア・コモンズ、ベーシック・ケア・インカムなどがその制度的形態となるだろう。生産から再生産へ。個人から相互依存へ。資本から関係へ――それが母権的価値転換の方向性である。

また、この構想においては、「欠如」が肯定される。ラカン的に言えば、母とは「他者としての欠如」を抱えた存在であり、その不完全性ゆえに関係性を育む空間を開く。資本主義が提供するのは、常に「充足」の幻想である。より高い収入、より大きな消費、より速い成果。それに対して母権的社会は、「不完全なまま共にあること」「手を差し伸べること」「時間をかけること」を価値とする。そこでは、「育つこと」や「支えること」が、政治的行為となる。

ここで、「共産社会」という語に込めた意味も重要である。マルクス主義の古典的な共産社会像は、生産手段の共有、労働の協同、階級なき社会を掲げていた。しかし本稿が提案するのは、そうした生産中心主義の脱構築でもある。むしろ、「共(とも)に産む」「共に育てる」「共に生きる」という、もっと根源的で生活的な意味での「共産」を想定している。それは、近代的な労働=生産概念の再定義であり、生活世界を回復する政治的想像力である。

さらに、母権共産社会は、国家や家族といった近代制度の「再編」も意味する。国家は市民を統治する中心ではなく、共生の基盤を支える調整装置へと変化する必要がある。家族は血縁を超え、ケアと関係性によって編成される「選択的共同体」として再構成される。単身高齢者、非婚育児など、現代社会において不可避となった多様な生を包摂する新たな社会的単位が求められる。

この構想の根底には、「倫理的な定住」がある。他者とともに住まうこと、地域に根ざすこと、空間と時間の中で関係性を積み重ねること。それはノマド資本主義の流動性、加速性、抽象性とは対極にある。「留まること」にこそ倫理がある。逃げず、断ち切らず、育て、引き受け、手放す。そうした関係性のネットワークこそが、資本に回収されない人間性の最後の砦である。

母権共産社会とは、ユートピアでもファンタジーでもない。それはむしろ、すでに破綻しつつある資本主義的生活の中で、各所に断片的に芽生えている実践に名前を与える試みである。子育て支援の協同組合、地域医療の共助ネットワーク、食と住まいの自給循環圏。これらはすべて、母権共産社会の萌芽である。

次章では、こうした構想をもとに、「資本主義以後」の生の倫理をどのように構想しうるかを、結語として提示したい。

6章:結論――資本主義以後の生の倫理

資本主義は終わらない――そう繰り返し語られてきた。冷戦終結以降、世界は「唯一の経済モデル」としてグローバル資本主義を受け入れ、それ以外の選択肢は「非現実的」であるとされてきた。だが、果たして本当にそうだろうか。地球環境の崩壊、所得格差の拡大、メンタルヘルスの危機、地域社会の分断、再生産労働の崩壊。これらはすべて、「終わらない」とされた資本主義がもたらした末路である。

本稿で繰り返し示してきたように、ノマド的資本――すなわち、場所を持たず責任を取らない資本の流動性こそが、これらの問題の根幹にある。金融工学によって抽象化された資本は、もはやモノでも土地でもなく、記号と演算の網の目となり、人間の生活世界を解体し続けている。国家は投資先と化し、共同体は採算性で評価され、個人は「リスクと可能性の束」として処理される。人間が「数字」としてのみ生きる社会に、倫理は存在しうるのか。

その問いに対する本稿の応答が「定住する母権」である。すなわち、場所にとどまり、他者に応答し、時間をかけて関係を築くことを善とする価値転換である。これは、成長を至上とし、移動と加速によってすべてを更新し続ける資本主義に対して、真っ向から異議を唱える倫理的態度である。母権共産社会とは、ケア・再生産・欠如・共生といった価値を中心に据えた、人間存在のラディカルな再編を目指す思想である。

この倫理には、ラカン的な欠如の概念が深く関与している。私たちは、完全でも自足的でもない。むしろ、他者の欲望によって構成され、象徴秩序のなかで常に「足りなさ」とともに生きている。だからこそ、人は他者とともに生きるしかない。ノマド資本主義がこの欠如を否認し、「すべては可能である」とする幻想を振りまくとき、私たちはむしろ、「すべてではない」という限界を受け入れ、そこから関係性を紡ぎ直す必要がある。

同様に、ドゥルーズ=ガタリが提唱した「逃走線」や「脱領土化」も、本来は権力の中心に対抗する運動であった。しかし現代では、その力動が資本によって利用され、ノマド的生が商品化されている。もはや逃げること、動くことは抵抗ではない。むしろ、「とどまること」「ケアすること」「他者を迎え入れること」にこそ、現在のラディカルな政治性が宿っている。デリダが述べた「ホスピタリティ」とは、まさにそのような定住の倫理であり、他者とともにある空間への信頼である。

このような思想的転換は、抽象的な理論にとどまるものではない。実際に、世界各地では「資本主義以後」を模索する実践が始まっている。スペインのエコビレッジ、日本各地で起きている地域通貨や自給的生活圏の形成、ケア労働を再評価する社会運動。これらは小さな波である。が、それぞれが資本主義の論理とは異なる時間、倫理、関係性を育んでいる。母権共産社会とは、そうした点と点を思想として結びつける試みである。

資本主義は終わらない、と言われる。しかし、その「終わらなさ」は、思想的想像力を封じることによってしか維持されていない。未来を語る言語を奪い、「これしかない」と囁き続ける体制に対して、いま必要なのは「これではないかもしれない」という声である。

「定住する母権」という構想は、いまここで、私たちが呼吸し、生活し、他者と関係を結び直すための思想である。それは、制度よりも先に生きられるべき原理であり、政治よりも先に感受されるべき感性である。ノマド的資本がすべてを数字に還元する世界の果てで、なおも人間的なものが残るとすれば、それは育まれ、応答され、共有されたものだけである。

この小さな倫理の火を、思想として掲げていくこと――それが、本稿が目指す批評の仕事である。