小鉢に野菜がいくつも盛られてやって来た。韓国の料理は多種多様である。香菜の類がからめられた小鉢を食すると、中華とも、日本料理とも、タイ料理とも違う食感を楽しめた。それにしても韓国料理は辛いという観念に縛られていた一般的な日本人の私には、ある種の解放を味わうことができた。
そもそも焼肉という料理は、銀座にある老舗の焼肉屋が創案したということを聞いたことがある。その時、いくつかの伝統料理のみを出し、肉を供するというスタイルが一般的になったからだろう。多種多様の日本料理があるなかで、「肉」を食わせる店=韓国料理という戦略が大当たりしたからにちがいない。
ワールドカップの共同開催と韓国ドラマのブームを受けて、韓国料理は日本でも一般化しつつある。私も新大久保辺りで家庭料理を何度も食したことがある。
それでも自分が虫になったと思うくらい野菜ばかり食べ、肉はさほどでもない本場の料理を体験し、日々の商業文化の刷り込みは恐ろしいと痛感した一夜だった。
<tokyotaro>
ソウルの春
初めて朝鮮半島に行くまで、そこに日本に似ている都市を想像していたけれども、漢江を眺め、やはり大陸なのだと実感する。曇り空のなかシャッターを切ると、ヨーロッパ都市に似た風景の湿度を感じたからかもしれない。
羽田から二時間あまりで着く都市とは想像できない、明らかなディファレンス(差異)を秘めて都市が呼吸をしている。河はそれぞれの都市の鼓動であり、基底音だと思う。
厳冬期は河が一面白く凍るんですよと、ガイドが日本語で言う。高速道路は東京の倍は道幅があり、こういうところも河とのアナロジカルな関連があるのだろう。
そんなことを、ソウルの明洞に向かう自動車のなかで想った。
<tokyotaro>
広告という幻想
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マールボロマンが表参道から眺めるビルの屋上に屹立していたのは十年少し前になるだろう。外国のたばこが上司の前では吸えないという声もあった時代である。(これは嘘のような本当の話です。)
当時、僕は広告代理店の仕事でマールボロと関わっていた。こういうアメリカの文化を売りつけるイメージ戦略の凄さをダイレクトに経験したことで、僕は世界を見る見方が変わった。世界はイメージが現実を凌駕し、そのイメージの中で世界の人々の心がコントロールされているのだと。
90年代のアートは引用(アプロプリエーション)アートが全盛となり、世界に偏在する広告・商品のイメージが最大限に活用された。道にある看板、アニメーションのキャラクター、テレビの画面、雑誌の広告等々、街に溢れている凡庸なイメージをアーティストは自分のアートに引用したのである。
僕はその流れを見て、ポップアートが台頭した頃のシニカルな批評性とは違う地平にあるのだと知った。もはやアーティストの頭のなかにも、そういうイメージが巣食ってしまい、もはや彼自身なんて何処にもないのだと。台本を演じているつもりの役者が、気がついたら役が自分になり、世界が台本のなかに吸い込まれてしまったように。
インターネットは世界を欲望の織物で包み込むくもの巣(ネット)である。いままでは戦略家が書いていた脚本も失われ、世界は自己増殖する台本に溺れてしまい、もはや脚本家は何処にもいないのかもしれない。
くもの巣のなかで、僕らは何をしているのでしょう。何処かに僕たちを食らう毒蜘蛛がひそんでいるのかもしれないのに。<tokyotaro>
東京の空
昭和の初期には、「東京には空がない」と、高村光太郎の妻は言ったそうだ。それでは、2005年の空はどうだろう。僕が住んでいる東京の港区には、雨後のタケノコのように高層ビル群が立ちあがっている。政府の高さ規制が緩和されたせいらしい。
港区には、三田の小山町のように戦前の街並みが残っている土地もある。今でも木造の銭湯に人が集い、路地には植木の小鉢が溢れ、野良猫が昼寝をしている。このあたりはかって、青山二郎の父方の土地だったそうだ。
僕の知人の画家はアパートの前の木伐採されそうな時、なんで切るんだと怒ったらしい。大家にとってはいらぬ迷惑なのだが、友達びいきを差し引いても彼の気持ちが分かる。
防災とか、老朽化の問題もある。地震の国だし、もともと建て直すことを前提にした木造建築の文化である。それでも文化的な意匠のつながりがなくなり、モダンな建築に溢れるだけの東京というのもいかがなものだろう。
東京は新しく変わり続けるところが魅力ではあるけれど、それでも少しは立ち止まって考えてみてもいいだろう。
ワインと映画 Ch La Conseillanteを飲む。

六本木のヴァージンシネマにて、『サイドウェイ』というアメリカ映画を観た。親友のため、男二人で婚前旅行する(バチュラーパーティーのような旅行?)、カルフォルニア・ワイナリーをめぐるロードムービーである。人情ものの落語のように切なく、可笑しく、ホッとする話だった。それはともかく、映画を観ると無性にワインが飲みたくなった。
大学生の頃、フランスに長期滞在していた時はヴァン・ド・ターブル(下級ワインですね)で酔っ払って楽しんでいるくらいで、別に銘柄なんて読めないし、「高級ワインをめでるいうブルジョア嗜好なんて」と軽蔑していたくらいだった。(ただAOCなんて飲めなくて、金がなかっただけでしたが…)
やがて仕事をするようになって、(少しばかりお酒関係の仕事をすることになり)、そこからワインという深みを知った。『ブルゴーニュのコートドールは、石灰岩が土地に含まれていて、それはここが太古の海底だったからだ』とかいううんちくを仕事相手から呪文のように聴かされ、いつのまにか入信してしまった。
それから良いワインの味を知ろうと、いままでラベルも良く覚えていなかったようなレベルから、本を読んだり日記をつけたり、それなりに良いワインを飲んでみた。
それからは、展示会で試飲したり、高いお金を払って買ったりもした。でも、chマルゴー、chムートン・ロートシルトのような五大シャトーから、ポムロルの有名シャトー、またカルフォルニアではアローホを買ったりという程度で、ロマネ社やら、ペトリュス等は未だ手が出ない。さすがにワインは農産物に近いから、一本づつ状態が分からない。だから外れると怖い。十万という金を出すなら、高級フレンチを食べたほうがいいと怯んでしまう。
映画では、主人公がシュバルブランの61年物を飲むシーンがある。そのせいか映画を観て、秘蔵していたCh La Conseillante 93 コンセイアントを週末飲んでしまった。
そのシュバルブランと比べるべくもないワインであるが、それでも僕にとっては高価で十分満足できるワインだった。
カフワの椅子

東京の目黒川でコーヒー屋をやっている「僕」が盲目のおばあさんとともに新しい世界を発見していく。やがてカフワの由来と共に語られていく、写真、眼、光、そして言葉と歴史について、ベルリンまで旅をしていく小説です。
<読者の感想>
●特に目に見えてるものなんて、あんまり重要じゃないのかなと。
「なんかどこかに大切なものを忘れてきてる」 最後にスイカのお面をかぶった写真を異国の地で見つけたときに僕はそれをつよく感じました。<雑誌編集者>
●一度読み、すぐにもう一度読みました。
とても親近感の覚える表現で書かれており入り込んで完読してしまいました。私は人間の『バランス』ということについて何だか考えてしまいました。<ネット書評よりtm <> >
※ぜひ以下の書店でご購入ください。
<Amazon>
<紀伊国屋書店>
ヤフー
首相官邸の池とカルガモ
春になると、花粉とともに鼻水が流れるのですが、それでも暖かくて気持ちが良いなと思う今日この頃です。
そういう季節になると、そろそろかなと思うことがあります。それは溜池山王にある首相官邸の池やって来たカルガモの消息です。この池は官邸の周りを流れている水路にある池なので、歩行者や警官がおやと目を留め、ひょこひょこ藪に隠れたり、または気にすることもなく水遊びをするカルガモを見て、ほのぼのしています。
東京の春は少しばかりの自然のなかに発見されるので、それは箱のなかの草花のように特別なもののように珍重されるのでしょう。
皇居の池にでも行けば安全なのにと会社員がやきもきしたり、記者が記事を書こうと警官に取材したり、それでもカルガモにとってはどこ吹く風なのですが。
<tokyotaro>
鎌倉の海とサーフィン
七里が浜の海は台風になると、ロングボードに良い波がやってくる。
僕は実家が神奈川県にあるので、このあたりの海が僕の考える「海」のイメージである。
でも大人になって、ロングボードと出会い、初めて海の素晴らしさを知った。
大学の頃、ヨットをやって浜に暮らして、一年ほどを過ごした。だから海の風も潮も知っているつもりだったが、たった一枚の板で海の力を感じるサーフィンは、それまでの経験とはまた別の視点にある「海」を教えてくれた。
鎌倉は山に囲まれたその先に海がある。山から海へ風が吹くと、波はかたちが美しくなる。鎌倉に住んでる人たちは大きなボードを手で抱えて、遠くから来る人たちは自動車に乗ってやってくる。
この写真は、そのパーキングからの眺めである。
地元の方々がごみの清掃を呼びかけ、波があるのにサーファーが海をあがってごみ拾いしたり、海亀が泳いできたりもする浜だ。
東京から一番近い、波のある海である。
その風景を感じていると、僕はスローライフという流行り言葉も悪くないと思った。
蔡國強と大陸の力
火薬と爆発による発光。僕が蔡氏の芸術を知ったのは、もう十年以上も前になる。そのころ、万里の長城を延長するというプロジェクトのドキュメンタリーを見、そのスケールに驚愕した。一万メートルの延長された爆薬が順に爆発して発光する。すると、彼は言う「宇宙からこの爆発を眺めると、万里の長城から光の龍か舞い立ち、それは宇宙空間を永遠に旅するのだ」と。
東京でも、僕もいくつか彼の作品を体験した。1994年、世田谷美術館で秦の兵馬俑の展示があり、同時に彼の展覧会も併催された。ちょうど兵馬俑の展示してある建物の外に大きな穴を掘り、盗掘のパロディをやった。また翌年、青山の街全体でキュレーターのヤン・フート氏が監督した『水の波紋』では、幼稚園から墓場繋がる竹の橋を築き、橋の上から過去と未来を俯瞰させてみせた。そののちもニューヨーク、横浜で彼の作品には何度も接した。どれもが明確なコンセプトと語る力のある作品だった。
今、中国は経済的にも大きな力となっている。十年前に、その前触れのような力を感じさせてくれた作家だった。
ドラえもんの娘。
藤子不二雄さんに小学生のころファンレターを出すと、キャラクターが勢ぞろいしたはがきを送ってくれた。その優しさにとても感動してしまい、大人になったらああいう漫画を書きたいなと思った。ひとりでキャラクターを想像し、ノートにいくつもの話を書いた。1970年代の話である。
それから十年して、僕は世田谷にある某私立大学に入学した。明るく、楽しく。80年代のキャンパスライフの理想がある場所だった。そこで同じ学部に藤子不二雄Bさんの娘がいると知った。友達が彼女をよく知っていたので、子供の頃の想いがあって、「ぜひお父さんを会わせて欲しい」と頼もうと思ったが、妙に恥ずかしくて切り出せなかった。子供でもなく、漫画家志望でもない大学生が会って何をしていいかわからなかった。
しばらくして、彼女のお父さんは亡くなった。恥ずかしいなどと思って切り出せなかった自分を後悔した。とても残念だったし、結局僕は友達から彼女を紹介してもらうこともなかった。
今度ドラえもんのアニメの声優の大山さんが辞めるという。僕のドラえもんは紙であってアニメではないけれど、そういうことにノスタルジーを感じてしまう人たちの気持ちはわかる。「ドラえもん」という漫画の世界も、世界のどこかで現実としての静かな死と繋がっているのだろうと。

