LLMは人間社会に内在するか、また外在する可能性があるか?

日本人はAI立国を目指し、能天気にLLMを道具だと思っている人が政府も知識人にも多いが、道具以上の課題を人間社会に内在する言語空間にもたらすと、LLMが教えてくれました。

◾️質問:LLMは人間社会に内在するものと考えています。外在的に思考を拡張する可能性はありますか?

GPT-4.0の回答
大規模言語モデル(LLM)が人間社会に内在するか、あるいは外在的に人間の思考を拡張する可能性があるかという問いは、技術と人間の関係に関する興味深い議論を提起します。

LLM
が人間社会に内在すると考える理由
開発と応用: LLMは人間によって開発され、維持され、進化し続けています。その使用方法、目的、倫理的指針は人間の社会、文化、法律によって形成されます。
人間の知識と文化の反映: LLMは人間の言語、知識、文化から得られたデータに基づいて訓練されます。そのため、その出力は間接的に人間の知識、思考、文化を反映します。

LLMが外在的に思考を拡張する可能性
思考の拡張: LLMは人間の思考や認知プロセスを外部からサポートし、拡張するツールとして機能します。これにより、人間は新たなアイデアを探求したり、問題解決を効率化したりすることができます。
新しい知識の生成: LLMは既存の知識を再構築し、新しい形で提示することができます。これにより、新しい視点や解釈が生み出され、人間の理解を深めることができます。
結論
LLMはその開発と運用の面で人間社会に内在していますが、その機能と影響の面では人間の思考を外在的に拡張する可能性を持っています。この二重性は、テクノロジーが人間の知的活動にどのように影響を与えるかという、より広い議論の一部です。LLMは人間の思考や学習のプロセスを補完し、拡張する道具として使用されることで、私たちの認知能力の範囲を実質的に広げることができます。

◾️質問:もし外在的にLLMが判断をし、アウトプットをする場合、人間社会がLLMに侵食され、変容するのではないでしょうか?

GPT-4.0の回答
外在的にLLMLarge Language Models)が判断を行い、アウトプットを提供する場合、人間社会に対するその影響は、確かに深刻かつ広範囲に及ぶ可能性があります。このプロセスによって人間社会がどのように「侵食され」あるいは「変容する」かは、複数の要素に依存します。

LLMの影響による社会の変容
意思決定プロセスの変化: LLMが意思決定や推薦を行う場合、人間はこれらの提案に頼る傾向が強まるかもしれません。これにより、個人や組織の意思決定プロセスが変わる可能性があります。
知識と情報の中心化: LLMが広範囲の主題にわたる情報を提供するため、知識の源としての中心的な役割を担うようになるかもしれません。これにより、情報の多様性や視点の多様性が減少する恐れがあります。

依存度の増加: 人間がLLMに依存するようになると、批判的思考能力の低下や判断力の喪失が懸念されます。

社会への「侵食」に関する懸念
個人の自律性の低下: 判断をLLMに委ねることが増えれば、個人の自律性や意志の独立性が損なわれる可能性があります。
民主主義と個人の権利: 決定が機械によってなされる場合、民主主義的プロセスや個人の権利に対する影響が問題となります。


管理と規制の必要性
このような変容や侵食を管理し、最小限に抑えるためには、LLMの使用に対する厳格な規制と倫理的ガイドラインが不可欠です。このプロセスには、技術の透明性、利害関係者の参加、倫理的配慮の組み込みが含まれます。

LLMが社会に与える影響は、その使われ方、管理の仕方、そして社会がこれに対してどのように適応するかに大きく依存します。技術は常に社会に影響を与えますが、その影響が建設的であるか、あるいは侵食的であるかは、その技術の統合と規制の方法によって異なります。重要なのは、LLMのような強力な技術を用いる際には、それが人間の福祉、自律性、そして社会的価値を強化するようにすることです。

 

混沌、あるいは入れ子化していく「私」の彼岸。

 東京は冬だったか。春もなく、いや夏だったかもしれない。

 部屋。空虚さはここだけでなく、そこかしこに溢れていた。ペスト菌が溢れた世界にて、住居に流刑されたと言ったのはカミュだったが、極小さな無生物からの寄生に怯えて暮らす私たちも、同じようにロックダウンをして、身を守っていた。

 空気清浄機が静かに回っているが、これが微細なウイルスを駆除するわけでもなく、それを体感できることもない。しばし点滅する信号が、確かにやっているのだというメッセージを送信してくる。機械が私たちに、安心しなさいと語るのだ。それは木像を神と祈る未開人と変わりはない。(現実界は力を失い、主体なき機械が私たちを慰める)

 日本人は奇妙な潔癖症からか、または自分を公から隠したいという遁世の気持ちからか、ウイルス以前から顔をマスクで隠す人が多かった。その効果があったのか、マスクの生活への移行はスムースだった。花粉症であるとか、様々な理由を述べてマスクをしなければなかったのが、言うまでもなく誰もが自然のこととして受け入れた。マスクは肌の外に、手と半ズボンなら脚の他に、唯一露出していた顔の半分を隠す。口と鼻という二つの穴、その前から隠されていた肛門、その他の性器の穴は塞がれた。現実を感じる受け入れ口は、目と耳を除いて、閉じてしまったようだ。その分、目と耳は無理やり稼働しなくてはならなくなった。

 そして目は書かれた文字と、映像(絵)という象徴界へさらに向かう。かつてマクルーハンがTVはマッサージだと言ったが、2020年の現在では、スマートフォンも、インターネット環境そのものがTVと同じ、感覚と刺激の拡張になっていて、そこからツイートやインスタグラム、またリンクした無量の動画の渦のなかに没入し、世界は透明になったようでありながらも、まさに混沌とした。

  無量にあるデバイスから誰もが侵入できるネット界は、自分の似姿を加工し、投影できる場所でもある。ナルシスは、自らの姿におぼれて死んでしまうが、ナルシスが水面に映る自分のイメージに恋をしたからと言われる。つまりナルシスは現実の肉体ではなく、「私」から分裂し、他者化した自己のイメージに溺れてしまった。それから鏡も、写真も進化し、自己像のイメージも分裂に悩むのは、映画俳優や、一部の有名人だけの出来事ではなくなった。そこいる私と、ここにいる私は違う。二年前のあの写真の中の姿が本当の「私」で、今の「私」はそうではない等。しかもイメージは同時に社会化され、想像界と象徴界とも結ばれている。もしその自分を否定できるのならば、会ったこともない政治家や有名人も同様に存在しないと断言するようなものだ。そこには虚偽も事実もなく、無限につながる鏡=イメージの共振があるだけだ。まるで対峙した二枚鏡を覗き込んだ時のように。

 ラカンの言う「現実界」「象徴界」「想像界」に存在する「私」をまず取り込む、存在である「現実界」の上、第二の皮膚は「言語」であり、第三の皮膚は「想像(イメージ)」である。その外の構造は、順に「家族」「共同体(学校、会社)」「国家(大きな社会)」と階層化していく。しかし高度化するメディアはウイルスのように、その身体を書き換えて、増殖し、階層化し、「私」(皮膚)を蹂躙する。階層化した世界を打ち壊し、あらゆる穴に侵入していく。もはや構造も、いったい何が層となっていくかもわからない。

 「私」は探し求める。父や母が好きだった物語を受け継いでいるか、国家が制度化した標準的な国民であるか、または消費社会が生み出した膨大な物語のなかでどういう役割を演じているか。好きな有名人(宗教家)が演じたコンテクストに自分が寄り添っているか、憧れるブランドの世界に自分は繋がっているか等、様々な要因のなかに自らを失い、さ迷っている。

 ジャン・ボードリヤールの視点を借りて、「広告」を「SNS(ネット)」に置き換えるとこういうことである。

 SNSの狡猾さと戦略上の価値は、まさに次の点に存在している。すなわち、誰にも自分の社会的威信を確認したいという気持ちを起こさせて他人と比較させることである。

 SNSは決して一人の人間だけに対して向けられることはなく、個人を他者との示唆的関係において標的にしている。個人の「奥深い動機」をひっかけたように見えるときでさえ、SNSはいつもよく目立つやり方でそうしているのだ。

 ■つまり、彼や彼女と親しい人々や集団あるいは階層化された全体を、読解と解釈の過程、SNSが作り出す自己顕示の過程へと呼び出すのである。

 高度資本主義は半世紀前に、商品を使用価値ではなく、象徴的な価値へと変貌していくことへ変容し、その先に個人が自分に対して商品化していく次元へと至っている。自己顕示のさなか、欲望の階層化の果てに、自らを売春婦とし、その稼いだ貨幣を、また別の売春婦へ贈与するのである。それでも自己顕示により社会性の中で、自らの商品価値が拡大すると想像しながら。

 現在、世界の検索を事実上支配しているGAFAの、特にグーグルは、象徴界(言葉)所有してしまうことを目指している。紐づけられた現実界、想像界が、そこから結びつけ、資本主義のシステムに処理され、操作され、または個人の物語が消費されていく。消費された「私」はまた顔を失い、新しい顔を求めて回遊する。その行動に、すべての消費が紐づけられていく。

 中国の故事に、渾沌(こんとん、拼音: húndùn)がある。中国神話に登場する怪物の一つであり、四凶の一つとされ、その名の通り、混沌(カオス)を司る。犬のような姿で長い毛が生えており、爪の無い脚は熊に似ている。目があるが見えず、耳もあるが聞こえない。脚はあるのだが、いつも自分の尻尾を咥えてグルグル回っているだけで前に進むことは無く、空を見ては笑っていたとされる。善人を忌み嫌い、悪人に媚びるという。また別の説では、頭に目、鼻、耳、口の七孔が無く、脚が六本と六枚の翼が生えた姿という説もあるが、荘子いわく、目鼻をつけると死んでしまうそうだ。

 私たちは移動できなくなることにより、さらに混沌に引き込まれ、現実界から遠ざかっていく。官能と暴力の彼岸へと、世界は邁進し、さらなる混沌へと引き込まれていく気がしてしまう。だが、もしAIによる、つまり機械による効率化や管理が、この混沌に道理を持ち込んだらどうだろうか。そこが一番恐ろしい事態かもしれない。

 蓋し、混沌の死と同時に、高度資本主義も絶滅するのだと思う。

 

ジョージ・フロイド氏の無残な死

白人と体制(警察官)がひとりの男を殺した。

確かに犯罪行為が推量される状況だったかもしれない。しかしあの映像が「象徴」的につきつけた事実は、現在も世界に「白人」社会と「近代資本主義国家」が、多大な奴隷の犠牲によってはじまり、またいまもそれが終息していないことだ。

確かに、あの警察官も裕福ではなくサイレントマジョリティーのひとりかもしれない。現在、アメリカの富の格差は著しく、そこにコロナ騒動もあり、もはや数千万の雇用が瞬間に失われ、同時にその影響も関係なく抑圧された人々がいまも大勢いるという事実である。フォーブス誌によると、2018年を見ると、最も裕福な10%が、家計資産合計の70%を所有している。この数値は、1989年には60%だった。トップ1%に流れ込む割合は、1989年の23%から、2018年には32%に跳ね上がっている。2020年も更に加速してるだろう。

奴隷制のはじまりは、1619年8月下旬、ホワイトライオンという名のイギリスの船がアメリカに奴隷を荷下ろし、1662年、バージニア州の議員が奴隷制度を正式に制定した。可決した法律にはこう書かれていた。奴隷となった黒人女性が生んだ子供もまた、全て永遠に奴隷になると宣言され、歴史家のカサンドラ・ニュービー・アレギサンダーは、「奴隷制度はアメリカ経済にとって非常に大きく、非常に重要で、それはアメリカの(他の)産業をすべて足し合わせたものよりも高く評価されるほどでした」と話していたそうだ。つまり新国家アメリカは、奴隷制度とともに発展し、北東部の州であるロードアイランド州の初期の白人議員たちはそれで財をなし、アメリカの新国家は奴隷とともに発展したものの、合衆国の奴隷制度が終了したといわれる1863年以降も、黒人たちの社会的な位置を、「白人」たちは放置した。1960年代のキング牧師の台頭も、暗殺によって中断し、いまでも多くのアフロ・アメリカンは、一部の社会的な成功者(スポーツ、エンターテイメント)を除いては、1980年代~90年代になっても抑圧されている。勿論、一部の成功者の黒人たちは、多少はその恩恵を受けたが、それが眩い光としてメディアで増幅されて広く伝わることの影に、蓋し過去から変わることのない闇が現在も存在している。それはタイガーウッズや、オバマ大統領が誕生しても、まだアメリカのなかには、文化的遺伝子として継承されているのだろう。なぜなら、そもそも黒人は奴隷であり、それが国の富を産み出したからだ。しかし奴隷解放以降は、「白人」社会にとっては、処分できない負債だったのだ。

私たち日本人は、その現実に対して、他国への内政の問題であるから沈黙するべきなのであろうか。それとも、何か声をあげるべきであるのだろうか。私にはその答えはわからない。

それでも現状の著しい世界における富の格差と、同時に「生資本」(消費者)としての価値しかなく、社会的立場も、声もあげることができず、消費社会の船底で生きていくのは、蓋し、近未来の「日本人」も同じことかもしれない。いまや労働は「奴隷」でなく「機械」に。そうであるならば、経済・政治システムにとって無用な民の存在は、「生資本」として以外の価値はないだろう。古いシステムと未来のシステムの狭間で、彼は無残に死んだのだと思う。

冥福を祈りたい。

コロナウイルス後の世界:ボードリヤールの慧眼から現在を読み解く。

終わりのない反射と指数関数的加速。

ジャン・ボードリヤールの慧眼は、テクノロジーが人の自由意思を超えて加速化していく地平を見抜いていた。確かにわたしたちのデジタルネットワークが開始されたのは、それほど昔ではない。二十年前は、まだ場所に固定されたアクセスポイントでしかなかったものが、もはや何十億というモバイル端末にてリアルタイムで結びつけられている。

彼は言う、われわれがもはや(主体的に)行為できる立場にはなく、純粋な反応と反射的操作と自動的な対応しかできない状況です、と。

 今回のコロナウイルスの騒動の発端は、2019年末の中国武漢でのアウトブレイクだった。湖北省武漢にある中国科学院武漢ウイルス研究所は、1956年設立に設立され、いまでは数万種のウイルスの銀行のような機能も持ち、安全レベル4の研究所である。そこから杜撰さから漏れ出したのか、故意に漏れ出したのかはわからない。しかし第7番目のコロナウイルスは、まさにわたしたちが主体として行為できる立場ではなく、「純粋な反応と反射的操作と自動的な対応しかできない状況」とした。

 事態はその前から始まっている。アメリカと中国の対立はイデオロギーの対立ではなく、そこにはかつて人間中心主義を構造主義が放逐した言語(法制度)でなく、反射的操作を加速化させるアルゴリズム(AI)により、世界のヘゲモニーを米中どちらが獲得するかをかけて闘っている。フェースブック、グーグル、アップル対、アリババ、ウエイボー、ファーフェイのような国家に繋がるプラットフォーマー・グローバル企業の艦隊である。

 かつて世界的な金融を牛耳ったロスチャイルド家は、戦争を牛耳り、ロスチャイルド家の援助なしに、戦争を始めることのできる国などヨーロッパには存在しないと、ポーランドのムスカウ侯爵に言わしめたが、そこには巨大資本家の身体が存在した。そこに資本家と労働者の闘争というイデオロギーが創出され、共産主義を通じ、欧州は「自由」を求め、その資本を巡る帝国主義との百年以上の闘争をはじめた。第一次世界大戦、全体主義の台頭、第二次性世界大戦が起こり、制止するために国際連盟、国際連合と、ヨーロッパに資本家による戦争を生み出さない試みを通じ、二十世紀のわりに、欧州はEUという着地点に至った。

 そこまでには偉大な熱量と、欲望と情熱が、人間の身体を通じて、まさに血を流して完了されたのだが、王も、神も、人間も、王座から追放した後に残ったのは、「政治的なものの場面、社会的なものの場面の終わり」だった。「舞台とスペクタクルにより古き疎外状況は消滅し、主体相互の限りない透明化と、情報を前にした出来事の透明化、リアルタイムのコミュニケーションにおける交換の透明化、市場経済の透明化、そしていたるところで生じている悪の透明化等々のために場所を譲った」というボードリヤールが、1995年に発言した内容が、その後加速化したのである。

 「純粋な反応と反射的操作と自動的な対応」は、いまや先に出たプラットフォーマー・グローバル企業の領域である。歴史学者のイスラエル人ユヴァル・ノア・ハラリは言う、政府が市民を監視し、ルールを破った人を罰する方法だ。今、人類史上で初めてテクノロジーを使えば全ての人を常に監視することが可能になった。50年前だったらソ連の国家保安委員会(KGB)であっても、24000万人に上るソ連の全市民を24時間追跡することはできなかったし、そうして収集した全ての情報を効果的に処理することも望むべくもなかった。KGBは人間の工作員や分析官を多く駆使したが、それでも全ての市民に1人ずつ監視役を張り付けて追跡するのはどうしても無理だった。だが今では各国政府は生身のスパイに頼らずとも、至るところに設置したセンサーと強力なアルゴリズムを活用できると。

 透明化は個人のプライバシーも、また権利も、身体も、プラットフォーマーたちが飲み込んでいく。「器官なき身体」が捕獲され、人間では無理だった管理社会が実現される。同時に偉大な熱量と、欲望と情熱が、人間の身体を通じて、まさに血を流して獲得した「自由」が忘却されてしまい、17世紀のルソー以来、ヨーロッパ中心主義から生み出された「人間」は解体され霧散していく。ヒューマニズムは完了したかのように。

 2016年に、欧州連合域外への個人情報の輸出を規制するGDPRが法制化したことや(2018年5月25日から施行)、移民を巡り、UK2016623日の国民投票の結果、投票者の51.9%がEUを離脱することを選択したブリクジットも、その解体の一社会的現象である。同時に、より「透明化」を促進し、膨大なデータ「管理」を推進できるシステムである5Gのネットワークは、中国のファーウエイ社の津波のようなセールスに世界は飲み込まれつつあり、唯一、アメリカ、日本、オーストラリア、また欧州の一部はそれに抗っているのが現況だ。(20204月)

 現在、新型コロナウイルスに、まさにわたしたちは無防備にさらされている。ジョンズ・ホプキンス大の集計によると、世界全体の累積感染者は142万人に上る。42日に世界全体で100万人を超え、1週間で倍増するペースになり、しかも検査自体が高度な技術とリソースを要することからも、インド、アフリカ等の貧しいエリアでは把握すら難しい。

その膨大なリスクは、日本が国家予算を超える対策費を投じても、追いつくかわからない経済的なインパクトもあり、世界はグローバルにおいて新型コロナウイルス(Covid-19)以前の姿には戻らないだろう。さらに「人間」の「自由」のリスクを管理するシステム及びネットワークが台頭し、AIという名の巨大なアルゴリズムのさらなる浸食が不可分になるはずだ。もはや「自由」というのは、二十世紀を回覧したタブローに描かれた、歴史のイメージになってしまうのかもしれない。

「情報」と「言葉」の錯誤の果てに

僕自身も深く仕事では関わっているけれども、膨大なデジタル「情報」はその果てに、「死のメディア」になりうる警鐘を鳴らしたい。
 いくらメディアの多様性や未来性を論じたところでも、「情報」と「言葉」とは同じではない。「情報」は「言葉」等を置換したものも含まれるが、「言葉」は生きた人間の発した声、または記録とての文字である。「言葉」は人間が作り出したものであるが、常に生きている。しかし一方「情報」は生きたものではない。「情報」は電子機器の中でも動作するけれども、「言葉」はかつて生きた人たちが産み出した魂のバトンだ。
「情報」は生きていない装置にも宿るが、「言葉」は決して生きている主体の外には存在しない。なぜなら、「火」というものは、「熱さ」を含有する事はない。つまり「火」に触れた主体の経験があってはじめて、「熱さ」が存在し、その「言葉」があるのである。デカルトを援用するならば、「火」の延長には「熱さ」は存在しない。「熱さ」とは生きた魂=主体の痕跡なのである。
 蓋し現在人を惑わす危険な「道具」は主体をイミテーションした存在である。具体的にはSiriのような道具は、あたかもその向こう側に主体がいるような錯覚を産み出すが、それは人間が人形に自己を投影し、反射している影に過ぎない。しかしまるで生きていたり、全能のように錯覚する先には、恐ろしい危険が満ちている。
 世間で言う「ディープ・ラーニング」は、膨大なWEB空間のその先には人間が書いたり、または発した「言葉」が満ちていると思い、それをまとめた「集合知」を参照しているのだと、多分想定しているのだろう。しかしそこには明快なプロトコルが介在し、操作している。結果(世界に平均的な人間は一人も生きていないように)主体のない「道具」が計算した結果に過ぎないのである。しかし人は、「言葉」を主体の示顕であると見なしてしまう。私たちは「生きていない主体」が発する死の深奥から沸き出す声に耳を貸してしまっているのだ。空虚の中に存在する幻聴である。
 「情報」は「言葉」ではないと理解し、あまりにも「道具」が人間の振りをする事態には、慎重でなくてはならない。過信した果てには、「ラジオ」が産み出したファシズム以上の惨禍が引き起こされる芽が潜んでいると思う。人形の吹くラッパに、殺し合いが起きる可能性があるからだ。
「生」は記録できない。また至極便利なものでもない。日々一回性のなかに、私たちは存在しているのだという、本質を見失う事こそ恐ろしい。

核事故の現況:なぜ民主党が収束宣言を野田内閣にて出したのか

1
日経新聞の夕刊に掲載された小さな記事。されど真実は重し。なぜ民主党が収束宣言を野田内閣にて出したのかについては、なぜか日本のジャーナリズムは分析も、批評もなし。収賄やら、枝葉末節の選挙違反等しか追わず。今なお溶け出している核燃料のみが事実であり、その他は果てしなく軽い。
(引用:とはサーチより)
ベクレルをシーベルトに換算するには、人体が摂取した放射能の量(ベクレル)に放射性核種それぞれに用意されている実効線量係数という値を掛けて導きます。さらに、経口摂取(食べる場合)と吸入摂取(呼吸で肺に取り込んだ場合)とでも実効線量係数は異なり、例えば1㎏あたり100ベクレルのセシウム137を飲食した場合には以下の様な計算になります。
100Bq/㎏×0.013μSv/Bq =1.3μSv
さらにこれを1年間摂取し続けると、
1.3μSv×365 = 474.5μSv
となります。
簡単な計算によると、1リットル摂取した場合、(排出がないとしたら)1日当たり16900ミリシーベルトもの被ばくをする。もちろん、量の問題があるので海洋に出ても莫大な水量によって希釈されるだろうが、それでも事実はきちんと認識し、責任の所在は明瞭にしなくてはせっかく活発化した原発に関する議論も、元の黙阿弥である。

アントニオ・ネグリ氏の講演を拝聴し、やがて姜氏を応援する。

『<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』により、世界的に注目された哲学者であり、左翼運動家であるアントニオ・ネグリ氏が初来日した。さまざまな思惑で招聘されたのだろうが、その事情については詳細を知らない。が、国際文化会館にて「マルチチュードと権力:3.11後の世界」という題目で講演があり、USTREAMでも配信され、生の声を聞く機会を得た。
事件を起こし、収監され、アメリカにも入国できないという人物だとあったので、どういう人かと思ってみたが、印象はイタリア人らしい鷹揚さがある左翼だった。プラダのオーナーデザイナーであっても、左翼であった国である。昔、赤い旅団に気をつけろと子供の頃、ミラノでも脅されたのを思い出す。
余談はさておき、元国連事務次長の明石氏と、姜尚中氏が挨拶をし、その後ネグリ氏が登壇した。
まずタイトルもそうだが、3.11を政治的なキーワードにしようとする意味は、そのそも私にはよくわからない。災害は歴史的な事件を引き起こす事由ではあるが、歴史ではない。人間の意思の導かぬものを政治的な象徴として扱う魂胆が、そもそも日本の政治風土というか、政治ジャーナリズムの卑小なところというか、つまりは教養のなさである。日本は奇妙だと思う。
同様ネグリ氏も、災害についてのお悔やみは述べたが、そこが政治的な問題のコアとはまったく話していなかった。(フランス語での講演だった)
まず講演のサマリーを書くとすると、前提として、労働が世界で変容し、物理的な労働から認知的な労働に変化し、グローバリゼーションが一般化した。(つまりは知本主義になりつつあり、オフショアで労働分業されるようになり、過去のハイテクがコモディティ化している現状を思うといい)特にアメリカがイラク戦争とともに衰退し、同時に社会民主主義も無力化した。その世界において、1)欧州における危機(EUの危機、金融の課題)2)ラテンアメリカの台頭 3)太平洋(西太平洋)をめぐるアメリカ、中国の覇権争い。その3つをテーマとして挙げた。
特に欧州においてネグリ氏が述べていた事は、まさに「国民国家」は左翼のフェティシズムとなり、資本家は「国民国家」ではなく、国境を超えている=グローバル化していると、(もはやEUは国家をこえているが)そのなかで政治的な労働者階級の運動が無意味化しているという現実。
個人的な経験からも、実際に欧州の現状は、旧植民地の人々が物理的な旧来の労働力から、資本を持ったり、認知的な労働に従事し、植民地の出身の上司、または会社オーナーが国の根幹を支えているのも事実である。しかも金融も、労働力も国境をを超えている。多分、この状況は、日本で学者や官僚をやっている人には実感できないだろうと思う。ネグリ氏がいうような認知的な労働をする会社は、インド資本で、レバノン人が社長で、英国人が経理をし、ポーランド人が企画をし、オランダ人が営業をし、マーケットは欧州と中東というイメージ。しかも仕事のワークスタイルもWEBによるネットワークで変化しているので、正規社員が少ないし、別に日本のようにそれを問題視することもない。
ラテンアメリカは、ブラジルとアルゼンチンの台頭、そのなかで民族主義に移行する力もあるが、決して古い体制には戻らないとネグリ氏は述べる。そもそも南米はスペイン人に歴史を粉砕されてしまっているので、そもそも欧州の亜流のようなところがある。
そして太平洋(姜氏は東アジアの中韓日と還元したが)は、西太平洋が新しいフロンティアとしてアメリカが偏在し、また欧州、南米、また中東から力をシフトしているとネグリ氏は述べる。それは現在のアメリカの先端は、西海岸の情報産業であることもあるし、いわゆる世界の軸が、かつてはジェノバ、ロンドン、ニューヨーク、そして今は西海岸だという現実だろう。ナショナリズム、覇権主義が台頭する中国との向き合いがどうなるか。ネグリ氏は、中国に対する米国の地政学的なチャレンジがあり、中国に対する不信をベースに、太平洋がどうリバランスされるかという、とても難しい問題と言っていた。
話はとても面白くグローバルだったが、一部の左翼運動家の方々には、なにかにネグリ氏のお墨付きをもらいたいというのが強くあり、閉口した。
対談にて姜氏は、主権者の25%しか自民党に入れていないのだから、あれは国民の意思とはかけ離れているとか言い出し、じゃあ民主党政権も同じだったろと思うが、それはさておき、どうしてこういう政治的アジテートを許すのかが、しかも東大の看板背負ってと、言論空間の質の低さと言うか、政治工作し放題の現状には、まさに日本は自由な国なんだと痛感した。
それでもナショナリズムの高まりがとか連呼し、しまいには反原発、反ナショナリズムですよねとか、ネグリ氏が話している言葉じりから還元した始末。そりゃ、中国、朝鮮が民主的であり、自由な政治風土をもつ、ネットワーク化された国々になってたら、反ナショナリズムもそうだと思うが、反原発はそもそも技術の話であり、そこを核とか政治的なアジテーションの力技に持ち込もうとするのも(いつでも核爆弾作れるからと)知性の瓦解と言わざる得ない。
ネグリ氏の講演を聞いたつもりが、最後に残ったのは、姜さん、日本で吠えていないで、母国、そして中国でがんばってください。心から応援しますから、という気持ちだった。

日本人にとって愛国とは、破壊や暴動ではなく、矜恃である。

愛国の心情を思い、歌を引用する。
おほきみの御稜威輝く日の本に狂業するな癡の漢人(平賀元義)
天皇の御稜威のかがやく皇國にむかつて、何のふざけた眞似をするか、承知をせぬぞ、癡呆の外國人どもよ、といふ意味である。萬葉集に、『いざ子ども狂業(たはわざ)なせそ天地(あめつち)のかためし國ぞ大和島根は』があつて、狂業(たはわざ)の語が入つて居る。/斉藤茂吉 愛国歌小観より。 

ロンドン滞在にて日本の現況を憂う。

5−6年振りにロンドンに滞在している。
街を歩いていて思うのは、勿論ユーロ圏ではないけれど、欧州経済危機に日本がIMFに金を出すなんてバタバタしているのが無縁に感じる程、別の次元で好況のような気がする。同じような感覚は昨年の韓国でも感じた。日本の現状と一体何がちがうのだろうかと思うと、それは「グローバル」であるという事実だ。
金持ちのインド人、アラブ人が街に溢れ、白人の若者がシュラフに包まりホームレスになっている現実を、国民が普通に受け入れるということだ。ナイトブリッジの高級コンドミニアムが1500平米で100億円以上の価格であったり、5億円の不動産が普通にある都市だ。日本人だと格差だとか叫んでしまい、まったく感情的な閉塞感に陥るのではないだろうか。日本のジャーナリズムに問題があるのかもしれない。
国、人種、宗教に関わらず、機会の平等があり、法人の自由が保障されている都市や国でないと、もはや「グローバル」はならないだろう。少なくとも言語という障壁が日本にはあるのだ。
そこを国家が戦略的に使う事が出来れば(国益となる人材、富裕層の外国人は受け入れる等、企業の法人税をさげる等)消費税をあげたとしても,日本はもっと活況になり得るだろう。

原子力発電の事故、状況、様々なコミットメント。

3月11日以降の6ヶ月間、特に東日本に住まう人々には、生活と潜在するリスクについて深く、また人生のなかにおける自分の立ち位置を検証する時間だったと思う。仕事、家族、生活等、1980年代以降に発展したメディア主導型の消費謳歌社会が、決定的な問い直しを受けた。その最大の理由は、言うまでもなく『福島第一原発事故』だった。
地震当初は、津波の被災エリアの決定的なダメージから、しばらくは原発の話はプライオリティに語ることが難しかった。が、時間が経つにつれ、さまざまな側面が露呈し、特に情報の開示については、電力村=電力マフィアと称される体質が糾弾された。しかし同様の体質は、日本中の何処にでも存在しているし、また鏡の中の自分に腹をたてるような、気持ち悪さがそこにある。まったくの外部にいる日本人はないし、あくまで内部からの闘争を行わなくては嘘である。
私は6月某日に、遠藤 哲也 (元IAEA理事会議長/元原子力委員会委員長代理)の講演を聞いてきた。元国連の明石 康氏が主催された原発問題を考察するイベントの「福島原発事故の影響~原発事故に国境なし」と題した講演だった。遠藤氏の講演は、まだ6月という異様な状況が現在ほども冷めやらない時だったこともあり、率直に語っていたという印象だった。あくまで外務省出身ということもあり、コミュニケーションの問題として原発を語り、技術的な問題については、専門家ではないが、中核にいた人間ならではの知見を感じた。
●原子力の問題は、天災で起きたが、その後の対応を含めては人災でもある。特に組織の在り方。
●10万マイクロシーベルト以下の低量放射線での人体の影響は、諸説をさまざまな立場の専門家(医師、技術者等)から聞いてきたが、悪いともいいともいえない。数字化=科学的な根拠がない。
●原子力の見直しは議論すべきだが、エネルギーの安全保障上の問題は重要な問題だ。
遠藤氏のポイントは、私がその後様々な専門家、関係者、つまり原子力を巡る様々なプレイヤーを理解していく足場となった。
人体への影響がどうなるかという議論については、今後の臨床的なデータの蓄積もあるし、内部被ばくを軽減するための人的及び官民一体の努力次第であるので、未だわからない話だ。但し、結局は責任のなすり合いにより現実的に存在している危機(特に高放射線の地域)にて、対策の不備は否めない。今なお続いている人災の側面からの可能性のある健康被害(特に放射能の受容性の高い子供たち)については緊急の対策をするべきである。そういう意味で、以下の課題解決は急務だ。
●潜在する危機に対するアクション(児童の疎開等)
●現在稼働または停止している原子力発電所における大規模事故のシュミレーション
●閉鎖している炭鉱の再稼働を含め、エネルギー安全保障体制の再構築
様々な利権を含む私たちの問題である側面がある。すべてを単純な経済状況とのトレードオフだけではなく、現在の政治がしなくてはならないのは、未来志向の課題解決だ。少なくとも半世紀のスパンの計画をつくるべきだ。民主党とか、自民党の次元ではなく、私たち全てがコミットメントするべき問題だという状況であることは、少なくとも東日本の人間は骨身に沁みている。
技術を捨てるという議論はあり得ない。必要が有る限り技術を人が抹消することはできない。核というパンドラの箱は既に開いてから半世紀以上継続している現実であり、冷戦後の私たちも莫大なコストを払い続けるという事態は不変だ。全廃を求めるだけの反原発運動はその意味では空論であり、いかに私たちがその技術とのスタンスを決定するための議論と、リーダーが不可欠なのだ。
兎に角、目を瞑る時ではない。