「定住する母権——ノマド資本主義への思想的応答」

1章:序論――ノマドの自由という罠

「自由」はいつから、これほど暴力的な言葉になったのだろうか。

かつて「ノマド」という語は、ドゥルーズ=ガタリの思想において、国家や制度、固定化された主体性に対抗する概念として提示された。それは、中心なき運動、コード化を拒む逃走線、流動と差異を尊ぶ解放的象徴であった。ノマド的であることは、「支配」や「所有」に抗し、「なにものにも回収されない生」を希求することであり、近代的主体の輪郭に亀裂を入れるラディカルな思想的企てだった。

だが21世紀の現在、ノマドという言葉は様相を一変させている。「デジタルノマド」「グローバル人材」「ボーダーレス社会」など、移動を是とし、どこにも根ざさず、すべてを選択可能とするライフスタイルは、現代資本主義においてむしろ称揚され、祝福されている。だが、その自由は果たして実体を持つのか。それは「選択」の名を借りた生存戦略ではなく、「選択肢からの退路を断たれた存在」の美化にすぎないのではないか。

本稿が問題にするのは、まさにこの点である。すなわち「ノマド的自由」という一見開放的な理想が、いかにしてグローバル資本主義と結託し、「定住」や「共同体」や「他者との関係性」を否認し、搾取と孤立の構造に人間を封じ込めてきたのか、ということである。

ノマドはもはや、逃走者でも異端者でもない。むしろ、資本の側がもっともノマド的であり、もっとも脱領土化され、もっとも無責任である。プライベートファンド、クラウドベースの多国籍企業、タックスヘイブンを駆使する投資体――それらは場所を持たず、労働力にも税にも法にも縛られない。そしてその論理は、デジタルノマドと称する労働者にも共振している。根なし草のように都市間を漂い、アルゴリズムに管理される収入に依存し、医療も教育もコミュニティも持たぬまま、「個人として生きること」が強いられている。

こうした状況において、あえて私たちは「定住」の倫理に立ち戻るべきではないだろうか。逃走することではなく、留まること。他者と空間を共有し、労働と生活をめぐる制約を受け入れながら、それでもなお相互扶助とケアに基づいた共同体を築くこと。その実践を思想として回復すること。それこそが、ノマド資本主義に対する最も根源的な抵抗ではないかと私は考える。

ここで提案したいのが、「母権共産社会」という構想である。これは、伝統的な意味での「女性支配」を意味しない。むしろ、資本主義が抑圧してきた「再生産」「ケア」「非合理性」「欠如の受容」などの母性的原理を中心に据えた社会のあり方である。そこでは、競争や拡大、所有といった父権的資本主義の価値が相対化され、相互扶助や生存の持続性といった価値が再評価される。

この構想は、単なる社会制度の提案ではない。それは、言語・無意識・倫理・空間・経済といった多領域にわたる価値転換を求める思想的実践であり、資本主義的近代を根底から問い直す哲学的プロジェクトである。

以下、本稿ではまず、ノマド思想の理論的系譜とそれが資本主義に回収されてきた過程を検証する(第2章)。ついで、ノマド資本の構造的暴力――とりわけプライベートファンドや脱法的な金融装置が国家や個人に及ぼす影響について考察する(第3章)。その上で、定住を倫理的に再構成する思想の可能性を、ドゥルーズ=ガタリ、デリダ、ラカンらの理論を援用しながら提示し(第4章)、最後に、母権的価値に基づいた脱資本主義的社会の構想を提言する(第5章)。

そして結語として、欠如を回避せず、むしろそれを引き受け、他者とともに生きる倫理としての「定住」が、いかにして資本主義以後の生の地平を切り拓くのかを論じたい。

2章:ノマド思想の系譜と変質

ノマドという概念は、現代思想において魅力的なイメージを担ってきた。とりわけジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、『千のプラトー』(1980年)において、ノマド的主体を「国家装置」や「領土国家」に抗する脱中心的存在として称揚した。彼らが提示するノマド論は、定住的で階層的な「樹状構造」に対して、根や中心を持たない「リゾーム」としての思考を象徴していた。ノマドはコード化を拒み、定義を攪乱し、国家による一元化を逃れる線的存在である。

こうした思想は、70年代以降のポスト構造主義の自由な気風と相まって、多くの芸術家や社会運動家に影響を与えた。固定的なアイデンティティに抵抗し、境界線を越え、自己を再帰的に生成する存在――それがノマドの理想像であった。フェミニズムにおいても、リュス・イリガライやジュディス・バトラーらが、身体や性のノマディズムを再解釈し、性差を絶対視する規範に揺さぶりをかけた。

しかし、21世紀に入り、この「ノマド」という語は危うい変質を遂げることになる。それは「思想的対抗概念」から、「制度的に歓迎される生き方」へと転落する過程である。デジタルノマド、フリーランス、パラレルワーカー、リモートネイティブ……かつて脱中心性の象徴であったノマドは、いまやグローバル資本主義の戦略的消費者/労働者として再構成されている。

この変質は偶然ではない。むしろ、資本の自己運動性にとってノマド的属性こそが都合よかったのである。企業は雇用を流動化し、インフラを持たずに展開し、労働力に責任を負わずに利益を最大化できるモデルを採用する。そのためには、固定的な共同体・国家・倫理に縛られないノマド的主体が必要だった。ノマド思想は、資本の手により反転され、制度の中に吸収されたのだ。

さらに深刻なのは、このノマド的存在が「主体の空洞化」と直結している点である。ラカン的な視点からいえば、主体は言語と象徴の網の目の中で「欠如」として構成される。欠如を抱え、他者との関係性において自己を生成する存在が人間である。しかし、資本主義が作り出すノマド的主体は、この欠如を否認する。どこにも属さず、いつでも接続され、すべてが選べるとされるこの「完全性」は、むしろ主体の喪失を意味する。

また、デリダの脱構築的ホスピタリティ論においても、ノマドと「他者」の関係性は重要な位置を占める。真のホスピタリティとは、予期せぬ他者を無条件で受け入れることだとデリダは言う。しかし、現代のノマドはどうか。他者を訪れるのではなく、他者を消費する――土地、文化、身体、労働力までもが移動の対象であり、責任なき接触の連鎖に過ぎない。これはもはや、倫理でも自由でもなく、従属の装置である。

したがって、本来解放の象徴であったノマドは、グローバル資本主義においてはむしろ「最も効率的に支配される主体」へと転倒している。資本はノマド的であると同時に、ノマドを再生産する。資本こそが最も流動的で、最も脱領土化され、最も抽象的な存在である。ノマド思想の核心が資本によって奪取されたこの状況において、もはや「逃走線」は解放ではなく、資本の運動線と重なってしまっている。

こうした状況下で、我々はあらためて「定住」の思想的意義を問い直す必要がある。逃走することよりも、引き受けること。空間や他者に対する責任を抱えること。母権的共同体の構想は、その「根ざし」の価値を再評価する試みである。定住とは、国家への回帰でも郷土主義でもない。それは、ケア、再生産、相互扶助といった「生の基盤」を思想の中心に据える営みである。

次章では、このようなノマド資本の暴力性、特にプライベートファンドやグローバル金融が国家や個人の生活空間をどのように侵食しているのかを検討する。

3章:ノマド資本の構造と暴力

近年、グローバルな資本移動の中核を担うのは、国家や土地に根ざさない「ノマド資本」である。かつて資本は、工場や土地、労働力といった物理的基盤に依存していた。しかし21世紀に入り、その基盤は一気に抽象化され、脱領土化された。とりわけ、プライベート・エクイティ(PE)ファンド、ヘッジファンド、ソブリン・ウィールズ・ファンド(国家系ファンド)などに代表される金融装置は、物理的制約を超えて国家の制度、地域の生活、個人の労働までをも収奪する機構となっている。

プライベートファンドの構造は特異である。それは一国の法制度に拘束されず、しばしばタックスヘイブンやオフショア口座を通じて多層的な匿名性を保持しながら、企業やインフラ、さらには公共資源に対して投資=買収を行う。そしてそれは単なる投資ではない。多くの場合、短期的利益を目的として企業の分割・リストラ・設備売却を実行し、雇用を破壊し、地域経済を空洞化させたのち、利益だけを回収して撤退する。このような「バイアウト型資本」は、ノマド的であるがゆえに、いかなる倫理的責任も社会的持続性も負わない。

さらに問題なのは、これらノマド資本が国家の統治能力そのものを侵食している点である。財政危機に陥った国家は、IMFや世界銀行の構造調整プログラムのもと、社会保障や公営企業の民営化を迫られる。水道、電力、教育、交通など、かつては市民の共有財産とされたインフラが、外資系ファンドの手に渡る事例は枚挙に暇がない。ギリシャ危機後の公共財売却、アルゼンチンの電力インフラの民営化、東南アジア諸国の交通網の外資支配など、それらはもはや「投資」ではなく、「略奪」と呼ぶべきである。

こうした構造の中で、「国家」はもはや市民の生活を支える装置ではなく、「投資可能性のある経済体」として再編されている。国民は「人間資本(human capital)」として評価され、年齢、教育歴、所得ポテンシャルといった指標で市場化される。住宅ローン、学資ローン、生命保険――これらはすべて、将来収益を担保にした「個人信用装置」であり、個人の身体と時間はすでに金融の対象となっている。

このような資本の振る舞いは、ラカン的視点から見ると、「欠如を否認するサディズム」として捉えられる。主体とは、本来「欠如」を抱えた存在である。ラカンによれば、欲望とは決して充足されないものであり、言語によって構造化された象徴秩序のなかで、人間は常に「何かが足りない」状態を生きる。しかし、資本はこの構造に真っ向から反する。「すべてを手に入れられる」「すべてを計算できる」という幻想を売りにし、欠如を否認し、享楽(jouissance)の全面展開を行う。

その果てに待つのは、人間の全商品化である。資本は、もはやモノだけでなく、「関係性」「感情」「時間」「予測」をも取引対象に変える。ケアワーカーや保育士の労働はAIと計測装置に置き換えられ、恋愛や性もプラットフォーム上のスコアとして市場に載せられる。アルゴリズムは、何を「好きになるべきか」「評価するべきか」を先回りして演算する。

つまり、ノマド資本とは、物理的な力の行使を必要としない、きわめて抽象的な暴力である。法を超え、場所を持たず、数式とコードによって世界を組み替えるこの装置は、従来の権力よりも遥かに非人格的で、しかも不可視である。

このような資本主義の形態に対して、いま私たちが取るべき態度とは何か。それは単なる制度改革や法規制では足りない。むしろ、「根ざすこと」そのものが抵抗であり、「責任を持つこと」「他者と応答すること」が、資本に対する倫理的反抗の最前線になるのではないか。

次章では、こうした資本主義的脱領土化に抗する思想として、「定住」――すなわち、土地・共同体・他者との関係性に根差した存在の再構築――について検討する。

4章:定住という倫理的再構築

「定住」という言葉は、現代においてしばしば時代遅れの、保守的で閉鎖的な価値観と見なされがちである。国境や共同体、伝統的生活様式を賛美する語として、ナショナリズムや排外主義と結びつけて理解されることが少なくない。しかし、本稿でいう「定住」はそのような血縁主義的な郷土観を意味しない。それはむしろ、資本主義的ノマディズム=責任なき流動性に抗して、「関係性にとどまること」「制約を受け入れた上で応答すること」としての倫理的実践である。

定住とは、単に同じ場所に住み続けることではない。それは、空間との関係を深く編み直し、自然・他者・歴史といった複数の時間軸を引き受ける態度のことを指す。たとえば、土を耕すという行為は、即効的な収穫を求める資本の時間とは異なる。そこには土壌、気候、風土といった不可制御な要素が含まれ、自然への忍耐と共感が求められる。これは、予測と制御を至上とする資本主義に対する根源的な異議申し立てである。

哲学的に言えば、定住とは「欠如を抱えた存在として、他者とともにあること」だ。ラカン的に言えば、我々は常に象徴界=言語の秩序の中で、何かを失いながら生きている。「すべてを持っている主体」など存在しない。だからこそ、他者を必要とし、応答を行い、社会的な関係を築いていく。ノマド的資本主義は、この欠如を否認し、完全性の幻想を提供することで主体を宙吊りにする。しかし、定住的主体は、むしろその「足りなさ」にこそ価値を見出し、共同性を構築する基盤とする。

ここで注目すべきは、イヴァン・イリイチの提唱した「共通資源(commons)」という思想である。彼は、産業化と制度化によって破壊された自律的な生活圏の再生を訴え、地域に根ざした教育、医療、労働のあり方を提唱した。イリイチにとって、真の自由とは「制限のなかでの選択」であり、定住はそのための倫理的・物理的前提であった。ここでいう定住は、「逃げないこと」「地域とともに悩むこと」「再生産を担うこと」といった、ケア的価値の具現である。

また、マレー・ブックチンの「社会的エコロジー」も、定住という思想の深化に資する。彼は、エコロジーを単なる自然保護の問題にとどめず、生活空間と政治空間を再統合する試みとして捉えた。ブックチンにとって、「自治」は自然環境と都市生活を調和させる実践であり、それは一過性の運動ではなく、定住に根差した構造的変革であった。つまり、エコロジー的社会とは、モビリティと利潤ではなく、「暮らし」と「関係」を優先する構造への転換を意味する。

さらに、デリダが晩年に論じた「ホスピタリティ(歓待)」の思想も参照されるべきだろう。彼は、「他者に対して開かれた家(場所)」をホスピタリティの理想とし、見知らぬ他者を迎え入れる定住空間の倫理を重視した。このホスピタリティは、無条件であると同時に、他者を迎える責任を前提とする。「定住」とは、閉じこもることではなく、むしろ「他者に開かれた応答責任の空間」である。

このように考えると、定住は決して保守主義的ではない。むしろ、ノマド資本主義の非倫理性に対して、他者との関係性を根底から問い直す急進的実践である。居住すること、育てること、支えること、引き受けること――それらはすべて、資本主義が「非生産的」として切り捨ててきた価値の回復にほかならない。

そして、この定住的倫理は、「母性」と深く結びつく。母性的とは、女性であることではなく、「育むこと」「時間をかけること」「他者を中心に置くこと」といった倫理的性格である。ここに、次章で論じる「母権共産社会」という構想の根幹がある。

次章では、資本主義に否定されてきた母性的価値を社会構造の中心に据えた思想的提案として、「母権共産社会」の可能性を提示したい。

5章:母権共産社会という思想的構想

「母権共産社会」という語は、多くの読者にとって耳慣れないものだろう。それは、伝統的な共産主義でも、単なるフェミニズムでもない。むしろ、本稿で提案するこの概念は、資本主義によって抑圧され、軽視されてきた「母性的原理」を倫理・経済・社会の中心に据えなおすことで、新たな共同体の可能性を思想的に構想しようとする試みである。

まず、「母性」をあらかじめ誤解から救い出す必要がある。ここでいう母性は、決して生物学的な性別や家族制度に閉じられた概念ではない。それは「ケア(care)」「再生産(reproduction)」「関係性(relationality)」「持続性(sustainability)」といった価値群を象徴する文化的・倫理的原理である。この原理は、20世紀的な「生産と拡大の経済」=父権的資本主義の論理に対し、根源的な批判と対抗の契機を内包している。

資本主義は、成長、競争、利潤、効率を価値の基盤とするが、それは常に誰かの「無償のケア」を搾取することで成り立ってきた。家事、育児、介護、情緒的労働――それらは女性に押しつけられ、見えない労働として資本の外部に追いやられてきた。ナンシー・フレイザーが指摘するように、資本主義は常に「ケアの不均衡」を前提として展開される体制であり、この矛盾を抜きにしていかなる経済成長も存在しない。

母権共産社会とは、この「不可視化されたケアの空間」を社会の中心に戻す思想である。そこでは、再生産が単なる個人の私事ではなく、社会的・経済的基盤として位置づけられ、ケア労働は無償の献身ではなく、共有される責任として制度化される。たとえば、地域ごとの共同保育所、ケア・コモンズ、ベーシック・ケア・インカムなどがその制度的形態となるだろう。生産から再生産へ。個人から相互依存へ。資本から関係へ――それが母権的価値転換の方向性である。

また、この構想においては、「欠如」が肯定される。ラカン的に言えば、母とは「他者としての欠如」を抱えた存在であり、その不完全性ゆえに関係性を育む空間を開く。資本主義が提供するのは、常に「充足」の幻想である。より高い収入、より大きな消費、より速い成果。それに対して母権的社会は、「不完全なまま共にあること」「手を差し伸べること」「時間をかけること」を価値とする。そこでは、「育つこと」や「支えること」が、政治的行為となる。

ここで、「共産社会」という語に込めた意味も重要である。マルクス主義の古典的な共産社会像は、生産手段の共有、労働の協同、階級なき社会を掲げていた。しかし本稿が提案するのは、そうした生産中心主義の脱構築でもある。むしろ、「共(とも)に産む」「共に育てる」「共に生きる」という、もっと根源的で生活的な意味での「共産」を想定している。それは、近代的な労働=生産概念の再定義であり、生活世界を回復する政治的想像力である。

さらに、母権共産社会は、国家や家族といった近代制度の「再編」も意味する。国家は市民を統治する中心ではなく、共生の基盤を支える調整装置へと変化する必要がある。家族は血縁を超え、ケアと関係性によって編成される「選択的共同体」として再構成される。単身高齢者、非婚育児など、現代社会において不可避となった多様な生を包摂する新たな社会的単位が求められる。

この構想の根底には、「倫理的な定住」がある。他者とともに住まうこと、地域に根ざすこと、空間と時間の中で関係性を積み重ねること。それはノマド資本主義の流動性、加速性、抽象性とは対極にある。「留まること」にこそ倫理がある。逃げず、断ち切らず、育て、引き受け、手放す。そうした関係性のネットワークこそが、資本に回収されない人間性の最後の砦である。

母権共産社会とは、ユートピアでもファンタジーでもない。それはむしろ、すでに破綻しつつある資本主義的生活の中で、各所に断片的に芽生えている実践に名前を与える試みである。子育て支援の協同組合、地域医療の共助ネットワーク、食と住まいの自給循環圏。これらはすべて、母権共産社会の萌芽である。

次章では、こうした構想をもとに、「資本主義以後」の生の倫理をどのように構想しうるかを、結語として提示したい。

6章:結論――資本主義以後の生の倫理

資本主義は終わらない――そう繰り返し語られてきた。冷戦終結以降、世界は「唯一の経済モデル」としてグローバル資本主義を受け入れ、それ以外の選択肢は「非現実的」であるとされてきた。だが、果たして本当にそうだろうか。地球環境の崩壊、所得格差の拡大、メンタルヘルスの危機、地域社会の分断、再生産労働の崩壊。これらはすべて、「終わらない」とされた資本主義がもたらした末路である。

本稿で繰り返し示してきたように、ノマド的資本――すなわち、場所を持たず責任を取らない資本の流動性こそが、これらの問題の根幹にある。金融工学によって抽象化された資本は、もはやモノでも土地でもなく、記号と演算の網の目となり、人間の生活世界を解体し続けている。国家は投資先と化し、共同体は採算性で評価され、個人は「リスクと可能性の束」として処理される。人間が「数字」としてのみ生きる社会に、倫理は存在しうるのか。

その問いに対する本稿の応答が「定住する母権」である。すなわち、場所にとどまり、他者に応答し、時間をかけて関係を築くことを善とする価値転換である。これは、成長を至上とし、移動と加速によってすべてを更新し続ける資本主義に対して、真っ向から異議を唱える倫理的態度である。母権共産社会とは、ケア・再生産・欠如・共生といった価値を中心に据えた、人間存在のラディカルな再編を目指す思想である。

この倫理には、ラカン的な欠如の概念が深く関与している。私たちは、完全でも自足的でもない。むしろ、他者の欲望によって構成され、象徴秩序のなかで常に「足りなさ」とともに生きている。だからこそ、人は他者とともに生きるしかない。ノマド資本主義がこの欠如を否認し、「すべては可能である」とする幻想を振りまくとき、私たちはむしろ、「すべてではない」という限界を受け入れ、そこから関係性を紡ぎ直す必要がある。

同様に、ドゥルーズ=ガタリが提唱した「逃走線」や「脱領土化」も、本来は権力の中心に対抗する運動であった。しかし現代では、その力動が資本によって利用され、ノマド的生が商品化されている。もはや逃げること、動くことは抵抗ではない。むしろ、「とどまること」「ケアすること」「他者を迎え入れること」にこそ、現在のラディカルな政治性が宿っている。デリダが述べた「ホスピタリティ」とは、まさにそのような定住の倫理であり、他者とともにある空間への信頼である。

このような思想的転換は、抽象的な理論にとどまるものではない。実際に、世界各地では「資本主義以後」を模索する実践が始まっている。スペインのエコビレッジ、日本各地で起きている地域通貨や自給的生活圏の形成、ケア労働を再評価する社会運動。これらは小さな波である。が、それぞれが資本主義の論理とは異なる時間、倫理、関係性を育んでいる。母権共産社会とは、そうした点と点を思想として結びつける試みである。

資本主義は終わらない、と言われる。しかし、その「終わらなさ」は、思想的想像力を封じることによってしか維持されていない。未来を語る言語を奪い、「これしかない」と囁き続ける体制に対して、いま必要なのは「これではないかもしれない」という声である。

「定住する母権」という構想は、いまここで、私たちが呼吸し、生活し、他者と関係を結び直すための思想である。それは、制度よりも先に生きられるべき原理であり、政治よりも先に感受されるべき感性である。ノマド的資本がすべてを数字に還元する世界の果てで、なおも人間的なものが残るとすれば、それは育まれ、応答され、共有されたものだけである。

この小さな倫理の火を、思想として掲げていくこと――それが、本稿が目指す批評の仕事である。

ソニー×ホンダのEV「AFEELA」開発中止。このニュースをどう読むべきか。

単なる一企業のプロジェクト撤退として処理するなら、それはあまりにも浅い。むしろこれは、自動車産業という巨大システムの前提そのものが崩れ、再編に入ったことを示す象徴的な出来事である。まず、表層的な事実関係から整理しておく。ホンダはEV戦略を大幅に見直し、最大2.5兆円規模の減損を計上した。そして北米向けのEV3モデル、さらに「0シリーズ」と呼ばれる自社EVの中核プロジェクトを停止した。この判断により、同じ技術基盤を共有していたソニー・ホンダの合弁EV「AFEELA」は、構造的に成立しなくなった。量産直前まで進んでいたプロジェクトが、極めて短期間で白紙化された背景には、単なる意思決定の変更ではなく、「前提の消滅」がある。

では、その前提とは何か。それは「EVは不可逆的に成長する市場である」という認識である。この認識が崩れた。決定的だったのはアメリカの政策転換だ。ドナルド・トランプ 政権下で、EV普及を後押ししていた規制や制度が大幅に見直され、事実上の緩和・撤回が進んだ。これにより、EV投資の回収前提が崩れた。補助金と規制によって成立していた市場が、急速に「自立的な競争市場」へと戻されたのである。

その影響はホンダだけに留まらない。フォード、GM、ステランティス、フォルクスワーゲンなど、世界中の主要メーカーが相次いでEV事業の減損や縮小を発表している。これは個別企業の失敗ではなく、産業全体のシナリオ修正である。言い換えれば、「EVが正解」という時代は終わり、「EVも選択肢の一つに過ぎない」という段階に入った。

しかし、より本質的なのはここからだ。ホンダの意思決定の核心は、EVそのものではない。「何と戦うか」を再定義した点にある。

動画でも強調されていたが、ホンダが直面している最大の脅威は、中国メーカーである。BYDやジーリーといった企業は、電池、ソフトウェア、車体設計を統合し、「車をIT製品として再構築」している。さらに価格競争力が圧倒的に高い。これは単なる製品競争ではなく、産業モデルそのものの競争である。

現実の市場はすでに変化している。ASEANや中国では、日本車のシェアは急速に低下している。ホンダはかつて15%近いシェアを持っていた市場で、短期間のうちに半減させている。これは「将来の危機」ではない。すでに進行している現実だ。

この状況で、ホンダが選んだのは「EVを続けるか否か」ではない。「何を優先するか」である。EV開発は5年単位の投資である。しかし中国との競争は2〜3年で勝敗が決まる。ならば、まずは四輪事業そのものの競争力を再構築する必要がある。中途半端なEVを作るよりも、「勝てる車」を作ることが優先されるべきだという判断だ。

これは撤退ではない。戦略の再配置である。

さらにAFEELAというプロジェクト自体にも、構造的な課題が存在していた。価格は約9万ドルと高額であり、テスラや中国EVと比較した際の明確な優位性が見えにくかった。加えて、開発スピードや量産体制においても競争環境に対して遅れがあった。ソニーの持つエンターテインメント性やソフトウェア体験というコンセプトは魅力的であったが、それが「車としての価値」をどこまで上回るのかは不透明だった。理想は先行していたが、現実の市場との接続が弱かったと言える。

ここで視点を広げると、この出来事は「EVの失敗」ではない。むしろ「EVという言葉で覆い隠されていた競争の本質」が露出したと考えるべきだ。

中国の強さは個別技術ではない。構造にある。国家、産業、大学が一体となり、研究成果が即座に事業化される。地方政府は産業クラスターを競い合い、資本と人材を集中させる。そして電池というコア技術を押さえ、さらにソフトウェアと半導体で主導権を握ろうとしている。これは単なる「EVメーカー」ではない。総合的なテック産業である。

加えて、シャオミのような企業は、車をスマートフォンや家電と統合された「生活OS」の一部として位置付けている。ここではもはや、車単体の性能ではなく、体験全体が競争軸になる。これは従来の自動車産業とは全く異なるゲームである。

では、日本はどうか。遅れている、という表現は正確ではない。すでに一部の市場では敗北している。しかし同時に、日本はまだ基盤を持っている。トヨタのように多様な戦略でリスクを分散している企業もあれば、スズキのようにインド市場で強固なポジションを築いている企業もある。つまり、完全に敗北したわけではないが、「このままでは負ける」という地点に立っている。

その意味で、AFEELAの中止は終わりではない。むしろ、重要なのはここからである。ソニーとホンダは一度ゼロベースに戻った。これはリスクであると同時に、機会でもある。従来の自動車の延長線ではなく、モビリティそのものを再定義する余地が生まれた。

ソニーはエンターテインメントとソフトウェアの企業であり、ホンダはハードウェアと製造の企業である。この二つが本質的に融合するなら、「車」という形を超えた新しいプロダクトが生まれる可能性もある。それは単なるEVではなく、移動体験そのものの再設計かもしれない。

結局のところ、この問題はEVではない。産業の主導権を誰が握るのかという問題である。アメリカはルールを変え、中国は構造で勝ちに来ている。そして日本は、戦うべき相手と方法を再定義し始めたばかりだ。

ここで問われているのは技術ではない。市場でもない。
「どの戦場を選び、何を捨て、何に賭けるのか」という意思である。

その意思を持てるかどうか。それこそが、この時代の企業と国家の分岐点になっている。

羨望を設計するアルゴリズムと、交換の純粋性

ポケモンカードが25億円で落札されたというニュースを見て、私は強い違和感を覚えた。売買そのものを否定するつもりはない。市場において価格が跳ね上がることはあり得るし、所有物をいくらで売ろうと個人の自由である。交換とは、本来、所有の完全な移転だ。売るということは手放すことであり、未来の評価や価格をコントロールできない状態を引き受けることだ。その不可逆性、象徴的な切断こそが交換の純粋性である。

しかし、私の違和感は価格そのものにはない。それが「羨望を煽る語り口」で拡散される構造にある。

現代のニュースは、もはや単なる報道ではない。SNSのタイムラインを通過するとき、情報はアルゴリズムによって選別され、増幅される。アルゴリズムは公共性や節度を基準にしていない。基準はエンゲージメント、すなわち反応の強さだ。驚き、怒り、羨望、嫌悪――感情の振幅が大きいものほど拡散される。

25億円という数字は、そのための理想的な素材だ。「史上最高額」「夢の一枚」といった見出しは、経済的分析のためではなく、感情を刺激するために設計される。アルゴリズムはそれを検知し、さらに多くの目に届ける。こうして交換は静かな契約から、欲望を演出するスペクタクルへと変質する。

問題は欲望そのものではない。欲望は人間の構造であり、消すことはできない。だが、SNSのアルゴリズムは欲望を穏やかに扱わない。それを極端化し、比較を加速させ、序列を可視化する。持つ者と持たざる者の差異を、絶えずスクリーン上に提示する。

未成熟な子供たちは、その断片化された成功像を文脈抜きで受け取る。「これほどの価値がある」「一枚で人生が変わる」。努力の時間軸や偶然性、投機のリスクは消え、結果だけが輝く。カードショップ襲撃のような事件が起きるとき、背景には経済的困窮や家庭環境など複合的要因がある。しかし、羨望を煽る物語が短絡的回路を強化することも否定できない。

アルゴリズムは責任を負わない。ただ「反応」を最大化する。その結果、社会は静かに比較と焦燥の装置へと変わる。交換の純粋性は、演出された優越の物語に覆われる。

アメリカ社会には寄付文化もあり、合法に得た富の使途は自由だという前提も強い。しかし、その物語がSNSを通じて日本にまで輸入されるとき、文化的な緩衝材は薄い。日本には少なくとも、富を控えめに扱う美意識があった。だがアルゴリズムは文化差を考慮しない。反応の強い物語は国境を越えて流れ込む。

ここで問うべきは、富の存在ではなく、物語の設計だ。価格の跳躍を神話化する語りを選ぶのか。それとも、投機性や偶然性、リスクを含めた複層的な文脈を示すのか。アルゴリズムが刺激を優先するなら、人間の側が節度を持つしかない。

世界を閉じた管理空間にしたくはない。交換は自由であってよい。しかし、欲望を増幅する機械に社会の感情を委ねることもまた、望ましいとは思えない。

問題は25億円ではない。問題は、それをどう語り、どう広げるかである。羨望を設計するアルゴリズムの時代において、私たちはせめて語りの節度を取り戻せるだろうか。

LLMは人間社会に内在するか、また外在する可能性があるか?

日本人はAI立国を目指し、能天気にLLMを道具だと思っている人が政府も知識人にも多いが、道具以上の課題を人間社会に内在する言語空間にもたらすと、LLMが教えてくれました。

◾️質問:LLMは人間社会に内在するものと考えています。外在的に思考を拡張する可能性はありますか?

GPT-4.0の回答
大規模言語モデル(LLM)が人間社会に内在するか、あるいは外在的に人間の思考を拡張する可能性があるかという問いは、技術と人間の関係に関する興味深い議論を提起します。

LLM
が人間社会に内在すると考える理由
開発と応用: LLMは人間によって開発され、維持され、進化し続けています。その使用方法、目的、倫理的指針は人間の社会、文化、法律によって形成されます。
人間の知識と文化の反映: LLMは人間の言語、知識、文化から得られたデータに基づいて訓練されます。そのため、その出力は間接的に人間の知識、思考、文化を反映します。

LLMが外在的に思考を拡張する可能性
思考の拡張: LLMは人間の思考や認知プロセスを外部からサポートし、拡張するツールとして機能します。これにより、人間は新たなアイデアを探求したり、問題解決を効率化したりすることができます。
新しい知識の生成: LLMは既存の知識を再構築し、新しい形で提示することができます。これにより、新しい視点や解釈が生み出され、人間の理解を深めることができます。
結論
LLMはその開発と運用の面で人間社会に内在していますが、その機能と影響の面では人間の思考を外在的に拡張する可能性を持っています。この二重性は、テクノロジーが人間の知的活動にどのように影響を与えるかという、より広い議論の一部です。LLMは人間の思考や学習のプロセスを補完し、拡張する道具として使用されることで、私たちの認知能力の範囲を実質的に広げることができます。

◾️質問:もし外在的にLLMが判断をし、アウトプットをする場合、人間社会がLLMに侵食され、変容するのではないでしょうか?

GPT-4.0の回答
外在的にLLMLarge Language Models)が判断を行い、アウトプットを提供する場合、人間社会に対するその影響は、確かに深刻かつ広範囲に及ぶ可能性があります。このプロセスによって人間社会がどのように「侵食され」あるいは「変容する」かは、複数の要素に依存します。

LLMの影響による社会の変容
意思決定プロセスの変化: LLMが意思決定や推薦を行う場合、人間はこれらの提案に頼る傾向が強まるかもしれません。これにより、個人や組織の意思決定プロセスが変わる可能性があります。
知識と情報の中心化: LLMが広範囲の主題にわたる情報を提供するため、知識の源としての中心的な役割を担うようになるかもしれません。これにより、情報の多様性や視点の多様性が減少する恐れがあります。

依存度の増加: 人間がLLMに依存するようになると、批判的思考能力の低下や判断力の喪失が懸念されます。

社会への「侵食」に関する懸念
個人の自律性の低下: 判断をLLMに委ねることが増えれば、個人の自律性や意志の独立性が損なわれる可能性があります。
民主主義と個人の権利: 決定が機械によってなされる場合、民主主義的プロセスや個人の権利に対する影響が問題となります。


管理と規制の必要性
このような変容や侵食を管理し、最小限に抑えるためには、LLMの使用に対する厳格な規制と倫理的ガイドラインが不可欠です。このプロセスには、技術の透明性、利害関係者の参加、倫理的配慮の組み込みが含まれます。

LLMが社会に与える影響は、その使われ方、管理の仕方、そして社会がこれに対してどのように適応するかに大きく依存します。技術は常に社会に影響を与えますが、その影響が建設的であるか、あるいは侵食的であるかは、その技術の統合と規制の方法によって異なります。重要なのは、LLMのような強力な技術を用いる際には、それが人間の福祉、自律性、そして社会的価値を強化するようにすることです。

 

混沌、あるいは入れ子化していく「私」の彼岸。

 東京は冬だったか。春もなく、いや夏だったかもしれない。

 部屋。空虚さはここだけでなく、そこかしこに溢れていた。ペスト菌が溢れた世界にて、住居に流刑されたと言ったのはカミュだったが、極小さな無生物からの寄生に怯えて暮らす私たちも、同じようにロックダウンをして、身を守っていた。

 空気清浄機が静かに回っているが、これが微細なウイルスを駆除するわけでもなく、それを体感できることもない。しばし点滅する信号が、確かにやっているのだというメッセージを送信してくる。機械が私たちに、安心しなさいと語るのだ。それは木像を神と祈る未開人と変わりはない。(現実界は力を失い、主体なき機械が私たちを慰める)

 日本人は奇妙な潔癖症からか、または自分を公から隠したいという遁世の気持ちからか、ウイルス以前から顔をマスクで隠す人が多かった。その効果があったのか、マスクの生活への移行はスムースだった。花粉症であるとか、様々な理由を述べてマスクをしなければなかったのが、言うまでもなく誰もが自然のこととして受け入れた。マスクは肌の外に、手と半ズボンなら脚の他に、唯一露出していた顔の半分を隠す。口と鼻という二つの穴、その前から隠されていた肛門、その他の性器の穴は塞がれた。現実を感じる受け入れ口は、目と耳を除いて、閉じてしまったようだ。その分、目と耳は無理やり稼働しなくてはならなくなった。

 そして目は書かれた文字と、映像(絵)という象徴界へさらに向かう。かつてマクルーハンがTVはマッサージだと言ったが、2020年の現在では、スマートフォンも、インターネット環境そのものがTVと同じ、感覚と刺激の拡張になっていて、そこからツイートやインスタグラム、またリンクした無量の動画の渦のなかに没入し、世界は透明になったようでありながらも、まさに混沌とした。

  無量にあるデバイスから誰もが侵入できるネット界は、自分の似姿を加工し、投影できる場所でもある。ナルシスは、自らの姿におぼれて死んでしまうが、ナルシスが水面に映る自分のイメージに恋をしたからと言われる。つまりナルシスは現実の肉体ではなく、「私」から分裂し、他者化した自己のイメージに溺れてしまった。それから鏡も、写真も進化し、自己像のイメージも分裂に悩むのは、映画俳優や、一部の有名人だけの出来事ではなくなった。そこいる私と、ここにいる私は違う。二年前のあの写真の中の姿が本当の「私」で、今の「私」はそうではない等。しかもイメージは同時に社会化され、想像界と象徴界とも結ばれている。もしその自分を否定できるのならば、会ったこともない政治家や有名人も同様に存在しないと断言するようなものだ。そこには虚偽も事実もなく、無限につながる鏡=イメージの共振があるだけだ。まるで対峙した二枚鏡を覗き込んだ時のように。

 ラカンの言う「現実界」「象徴界」「想像界」に存在する「私」をまず取り込む、存在である「現実界」の上、第二の皮膚は「言語」であり、第三の皮膚は「想像(イメージ)」である。その外の構造は、順に「家族」「共同体(学校、会社)」「国家(大きな社会)」と階層化していく。しかし高度化するメディアはウイルスのように、その身体を書き換えて、増殖し、階層化し、「私」(皮膚)を蹂躙する。階層化した世界を打ち壊し、あらゆる穴に侵入していく。もはや構造も、いったい何が層となっていくかもわからない。

 「私」は探し求める。父や母が好きだった物語を受け継いでいるか、国家が制度化した標準的な国民であるか、または消費社会が生み出した膨大な物語のなかでどういう役割を演じているか。好きな有名人(宗教家)が演じたコンテクストに自分が寄り添っているか、憧れるブランドの世界に自分は繋がっているか等、様々な要因のなかに自らを失い、さ迷っている。

 ジャン・ボードリヤールの視点を借りて、「広告」を「SNS(ネット)」に置き換えるとこういうことである。

 SNSの狡猾さと戦略上の価値は、まさに次の点に存在している。すなわち、誰にも自分の社会的威信を確認したいという気持ちを起こさせて他人と比較させることである。

 SNSは決して一人の人間だけに対して向けられることはなく、個人を他者との示唆的関係において標的にしている。個人の「奥深い動機」をひっかけたように見えるときでさえ、SNSはいつもよく目立つやり方でそうしているのだ。

 ■つまり、彼や彼女と親しい人々や集団あるいは階層化された全体を、読解と解釈の過程、SNSが作り出す自己顕示の過程へと呼び出すのである。

 高度資本主義は半世紀前に、商品を使用価値ではなく、象徴的な価値へと変貌していくことへ変容し、その先に個人が自分に対して商品化していく次元へと至っている。自己顕示のさなか、欲望の階層化の果てに、自らを売春婦とし、その稼いだ貨幣を、また別の売春婦へ贈与するのである。それでも自己顕示により社会性の中で、自らの商品価値が拡大すると想像しながら。

 現在、世界の検索を事実上支配しているGAFAの、特にグーグルは、象徴界(言葉)所有してしまうことを目指している。紐づけられた現実界、想像界が、そこから結びつけ、資本主義のシステムに処理され、操作され、または個人の物語が消費されていく。消費された「私」はまた顔を失い、新しい顔を求めて回遊する。その行動に、すべての消費が紐づけられていく。

 中国の故事に、渾沌(こんとん、拼音: húndùn)がある。中国神話に登場する怪物の一つであり、四凶の一つとされ、その名の通り、混沌(カオス)を司る。犬のような姿で長い毛が生えており、爪の無い脚は熊に似ている。目があるが見えず、耳もあるが聞こえない。脚はあるのだが、いつも自分の尻尾を咥えてグルグル回っているだけで前に進むことは無く、空を見ては笑っていたとされる。善人を忌み嫌い、悪人に媚びるという。また別の説では、頭に目、鼻、耳、口の七孔が無く、脚が六本と六枚の翼が生えた姿という説もあるが、荘子いわく、目鼻をつけると死んでしまうそうだ。

 私たちは移動できなくなることにより、さらに混沌に引き込まれ、現実界から遠ざかっていく。官能と暴力の彼岸へと、世界は邁進し、さらなる混沌へと引き込まれていく気がしてしまう。だが、もしAIによる、つまり機械による効率化や管理が、この混沌に道理を持ち込んだらどうだろうか。そこが一番恐ろしい事態かもしれない。

 蓋し、混沌の死と同時に、高度資本主義も絶滅するのだと思う。

 

ジョージ・フロイド氏の無残な死

白人と体制(警察官)がひとりの男を殺した。

確かに犯罪行為が推量される状況だったかもしれない。しかしあの映像が「象徴」的につきつけた事実は、現在も世界に「白人」社会と「近代資本主義国家」が、多大な奴隷の犠牲によってはじまり、またいまもそれが終息していないことだ。

確かに、あの警察官も裕福ではなくサイレントマジョリティーのひとりかもしれない。現在、アメリカの富の格差は著しく、そこにコロナ騒動もあり、もはや数千万の雇用が瞬間に失われ、同時にその影響も関係なく抑圧された人々がいまも大勢いるという事実である。フォーブス誌によると、2018年を見ると、最も裕福な10%が、家計資産合計の70%を所有している。この数値は、1989年には60%だった。トップ1%に流れ込む割合は、1989年の23%から、2018年には32%に跳ね上がっている。2020年も更に加速してるだろう。

奴隷制のはじまりは、1619年8月下旬、ホワイトライオンという名のイギリスの船がアメリカに奴隷を荷下ろし、1662年、バージニア州の議員が奴隷制度を正式に制定した。可決した法律にはこう書かれていた。奴隷となった黒人女性が生んだ子供もまた、全て永遠に奴隷になると宣言され、歴史家のカサンドラ・ニュービー・アレギサンダーは、「奴隷制度はアメリカ経済にとって非常に大きく、非常に重要で、それはアメリカの(他の)産業をすべて足し合わせたものよりも高く評価されるほどでした」と話していたそうだ。つまり新国家アメリカは、奴隷制度とともに発展し、北東部の州であるロードアイランド州の初期の白人議員たちはそれで財をなし、アメリカの新国家は奴隷とともに発展したものの、合衆国の奴隷制度が終了したといわれる1863年以降も、黒人たちの社会的な位置を、「白人」たちは放置した。1960年代のキング牧師の台頭も、暗殺によって中断し、いまでも多くのアフロ・アメリカンは、一部の社会的な成功者(スポーツ、エンターテイメント)を除いては、1980年代~90年代になっても抑圧されている。勿論、一部の成功者の黒人たちは、多少はその恩恵を受けたが、それが眩い光としてメディアで増幅されて広く伝わることの影に、蓋し過去から変わることのない闇が現在も存在している。それはタイガーウッズや、オバマ大統領が誕生しても、まだアメリカのなかには、文化的遺伝子として継承されているのだろう。なぜなら、そもそも黒人は奴隷であり、それが国の富を産み出したからだ。しかし奴隷解放以降は、「白人」社会にとっては、処分できない負債だったのだ。

私たち日本人は、その現実に対して、他国への内政の問題であるから沈黙するべきなのであろうか。それとも、何か声をあげるべきであるのだろうか。私にはその答えはわからない。

それでも現状の著しい世界における富の格差と、同時に「生資本」(消費者)としての価値しかなく、社会的立場も、声もあげることができず、消費社会の船底で生きていくのは、蓋し、近未来の「日本人」も同じことかもしれない。いまや労働は「奴隷」でなく「機械」に。そうであるならば、経済・政治システムにとって無用な民の存在は、「生資本」として以外の価値はないだろう。古いシステムと未来のシステムの狭間で、彼は無残に死んだのだと思う。

冥福を祈りたい。

コロナウイルス後の世界:ボードリヤールの慧眼から現在を読み解く。

終わりのない反射と指数関数的加速。

ジャン・ボードリヤールの慧眼は、テクノロジーが人の自由意思を超えて加速化していく地平を見抜いていた。確かにわたしたちのデジタルネットワークが開始されたのは、それほど昔ではない。二十年前は、まだ場所に固定されたアクセスポイントでしかなかったものが、もはや何十億というモバイル端末にてリアルタイムで結びつけられている。

彼は言う、われわれがもはや(主体的に)行為できる立場にはなく、純粋な反応と反射的操作と自動的な対応しかできない状況です、と。

 今回のコロナウイルスの騒動の発端は、2019年末の中国武漢でのアウトブレイクだった。湖北省武漢にある中国科学院武漢ウイルス研究所は、1956年設立に設立され、いまでは数万種のウイルスの銀行のような機能も持ち、安全レベル4の研究所である。そこから杜撰さから漏れ出したのか、故意に漏れ出したのかはわからない。しかし第7番目のコロナウイルスは、まさにわたしたちが主体として行為できる立場ではなく、「純粋な反応と反射的操作と自動的な対応しかできない状況」とした。

 事態はその前から始まっている。アメリカと中国の対立はイデオロギーの対立ではなく、そこにはかつて人間中心主義を構造主義が放逐した言語(法制度)でなく、反射的操作を加速化させるアルゴリズム(AI)により、世界のヘゲモニーを米中どちらが獲得するかをかけて闘っている。フェースブック、グーグル、アップル対、アリババ、ウエイボー、ファーフェイのような国家に繋がるプラットフォーマー・グローバル企業の艦隊である。

 かつて世界的な金融を牛耳ったロスチャイルド家は、戦争を牛耳り、ロスチャイルド家の援助なしに、戦争を始めることのできる国などヨーロッパには存在しないと、ポーランドのムスカウ侯爵に言わしめたが、そこには巨大資本家の身体が存在した。そこに資本家と労働者の闘争というイデオロギーが創出され、共産主義を通じ、欧州は「自由」を求め、その資本を巡る帝国主義との百年以上の闘争をはじめた。第一次世界大戦、全体主義の台頭、第二次性世界大戦が起こり、制止するために国際連盟、国際連合と、ヨーロッパに資本家による戦争を生み出さない試みを通じ、二十世紀のわりに、欧州はEUという着地点に至った。

 そこまでには偉大な熱量と、欲望と情熱が、人間の身体を通じて、まさに血を流して完了されたのだが、王も、神も、人間も、王座から追放した後に残ったのは、「政治的なものの場面、社会的なものの場面の終わり」だった。「舞台とスペクタクルにより古き疎外状況は消滅し、主体相互の限りない透明化と、情報を前にした出来事の透明化、リアルタイムのコミュニケーションにおける交換の透明化、市場経済の透明化、そしていたるところで生じている悪の透明化等々のために場所を譲った」というボードリヤールが、1995年に発言した内容が、その後加速化したのである。

 「純粋な反応と反射的操作と自動的な対応」は、いまや先に出たプラットフォーマー・グローバル企業の領域である。歴史学者のイスラエル人ユヴァル・ノア・ハラリは言う、政府が市民を監視し、ルールを破った人を罰する方法だ。今、人類史上で初めてテクノロジーを使えば全ての人を常に監視することが可能になった。50年前だったらソ連の国家保安委員会(KGB)であっても、24000万人に上るソ連の全市民を24時間追跡することはできなかったし、そうして収集した全ての情報を効果的に処理することも望むべくもなかった。KGBは人間の工作員や分析官を多く駆使したが、それでも全ての市民に1人ずつ監視役を張り付けて追跡するのはどうしても無理だった。だが今では各国政府は生身のスパイに頼らずとも、至るところに設置したセンサーと強力なアルゴリズムを活用できると。

 透明化は個人のプライバシーも、また権利も、身体も、プラットフォーマーたちが飲み込んでいく。「器官なき身体」が捕獲され、人間では無理だった管理社会が実現される。同時に偉大な熱量と、欲望と情熱が、人間の身体を通じて、まさに血を流して獲得した「自由」が忘却されてしまい、17世紀のルソー以来、ヨーロッパ中心主義から生み出された「人間」は解体され霧散していく。ヒューマニズムは完了したかのように。

 2016年に、欧州連合域外への個人情報の輸出を規制するGDPRが法制化したことや(2018年5月25日から施行)、移民を巡り、UK2016623日の国民投票の結果、投票者の51.9%がEUを離脱することを選択したブリクジットも、その解体の一社会的現象である。同時に、より「透明化」を促進し、膨大なデータ「管理」を推進できるシステムである5Gのネットワークは、中国のファーウエイ社の津波のようなセールスに世界は飲み込まれつつあり、唯一、アメリカ、日本、オーストラリア、また欧州の一部はそれに抗っているのが現況だ。(20204月)

 現在、新型コロナウイルスに、まさにわたしたちは無防備にさらされている。ジョンズ・ホプキンス大の集計によると、世界全体の累積感染者は142万人に上る。42日に世界全体で100万人を超え、1週間で倍増するペースになり、しかも検査自体が高度な技術とリソースを要することからも、インド、アフリカ等の貧しいエリアでは把握すら難しい。

その膨大なリスクは、日本が国家予算を超える対策費を投じても、追いつくかわからない経済的なインパクトもあり、世界はグローバルにおいて新型コロナウイルス(Covid-19)以前の姿には戻らないだろう。さらに「人間」の「自由」のリスクを管理するシステム及びネットワークが台頭し、AIという名の巨大なアルゴリズムのさらなる浸食が不可分になるはずだ。もはや「自由」というのは、二十世紀を回覧したタブローに描かれた、歴史のイメージになってしまうのかもしれない。

「情報」と「言葉」の錯誤の果てに

僕自身も深く仕事では関わっているけれども、膨大なデジタル「情報」はその果てに、「死のメディア」になりうる警鐘を鳴らしたい。
 いくらメディアの多様性や未来性を論じたところでも、「情報」と「言葉」とは同じではない。「情報」は「言葉」等を置換したものも含まれるが、「言葉」は生きた人間の発した声、または記録とての文字である。「言葉」は人間が作り出したものであるが、常に生きている。しかし一方「情報」は生きたものではない。「情報」は電子機器の中でも動作するけれども、「言葉」はかつて生きた人たちが産み出した魂のバトンだ。
「情報」は生きていない装置にも宿るが、「言葉」は決して生きている主体の外には存在しない。なぜなら、「火」というものは、「熱さ」を含有する事はない。つまり「火」に触れた主体の経験があってはじめて、「熱さ」が存在し、その「言葉」があるのである。デカルトを援用するならば、「火」の延長には「熱さ」は存在しない。「熱さ」とは生きた魂=主体の痕跡なのである。
 蓋し現在人を惑わす危険な「道具」は主体をイミテーションした存在である。具体的にはSiriのような道具は、あたかもその向こう側に主体がいるような錯覚を産み出すが、それは人間が人形に自己を投影し、反射している影に過ぎない。しかしまるで生きていたり、全能のように錯覚する先には、恐ろしい危険が満ちている。
 世間で言う「ディープ・ラーニング」は、膨大なWEB空間のその先には人間が書いたり、または発した「言葉」が満ちていると思い、それをまとめた「集合知」を参照しているのだと、多分想定しているのだろう。しかしそこには明快なプロトコルが介在し、操作している。結果(世界に平均的な人間は一人も生きていないように)主体のない「道具」が計算した結果に過ぎないのである。しかし人は、「言葉」を主体の示顕であると見なしてしまう。私たちは「生きていない主体」が発する死の深奥から沸き出す声に耳を貸してしまっているのだ。空虚の中に存在する幻聴である。
 「情報」は「言葉」ではないと理解し、あまりにも「道具」が人間の振りをする事態には、慎重でなくてはならない。過信した果てには、「ラジオ」が産み出したファシズム以上の惨禍が引き起こされる芽が潜んでいると思う。人形の吹くラッパに、殺し合いが起きる可能性があるからだ。
「生」は記録できない。また至極便利なものでもない。日々一回性のなかに、私たちは存在しているのだという、本質を見失う事こそ恐ろしい。

核事故の現況:なぜ民主党が収束宣言を野田内閣にて出したのか

1
日経新聞の夕刊に掲載された小さな記事。されど真実は重し。なぜ民主党が収束宣言を野田内閣にて出したのかについては、なぜか日本のジャーナリズムは分析も、批評もなし。収賄やら、枝葉末節の選挙違反等しか追わず。今なお溶け出している核燃料のみが事実であり、その他は果てしなく軽い。
(引用:とはサーチより)
ベクレルをシーベルトに換算するには、人体が摂取した放射能の量(ベクレル)に放射性核種それぞれに用意されている実効線量係数という値を掛けて導きます。さらに、経口摂取(食べる場合)と吸入摂取(呼吸で肺に取り込んだ場合)とでも実効線量係数は異なり、例えば1㎏あたり100ベクレルのセシウム137を飲食した場合には以下の様な計算になります。
100Bq/㎏×0.013μSv/Bq =1.3μSv
さらにこれを1年間摂取し続けると、
1.3μSv×365 = 474.5μSv
となります。
簡単な計算によると、1リットル摂取した場合、(排出がないとしたら)1日当たり16900ミリシーベルトもの被ばくをする。もちろん、量の問題があるので海洋に出ても莫大な水量によって希釈されるだろうが、それでも事実はきちんと認識し、責任の所在は明瞭にしなくてはせっかく活発化した原発に関する議論も、元の黙阿弥である。

アントニオ・ネグリ氏の講演を拝聴し、やがて姜氏を応援する。

『<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』により、世界的に注目された哲学者であり、左翼運動家であるアントニオ・ネグリ氏が初来日した。さまざまな思惑で招聘されたのだろうが、その事情については詳細を知らない。が、国際文化会館にて「マルチチュードと権力:3.11後の世界」という題目で講演があり、USTREAMでも配信され、生の声を聞く機会を得た。
事件を起こし、収監され、アメリカにも入国できないという人物だとあったので、どういう人かと思ってみたが、印象はイタリア人らしい鷹揚さがある左翼だった。プラダのオーナーデザイナーであっても、左翼であった国である。昔、赤い旅団に気をつけろと子供の頃、ミラノでも脅されたのを思い出す。
余談はさておき、元国連事務次長の明石氏と、姜尚中氏が挨拶をし、その後ネグリ氏が登壇した。
まずタイトルもそうだが、3.11を政治的なキーワードにしようとする意味は、そのそも私にはよくわからない。災害は歴史的な事件を引き起こす事由ではあるが、歴史ではない。人間の意思の導かぬものを政治的な象徴として扱う魂胆が、そもそも日本の政治風土というか、政治ジャーナリズムの卑小なところというか、つまりは教養のなさである。日本は奇妙だと思う。
同様ネグリ氏も、災害についてのお悔やみは述べたが、そこが政治的な問題のコアとはまったく話していなかった。(フランス語での講演だった)
まず講演のサマリーを書くとすると、前提として、労働が世界で変容し、物理的な労働から認知的な労働に変化し、グローバリゼーションが一般化した。(つまりは知本主義になりつつあり、オフショアで労働分業されるようになり、過去のハイテクがコモディティ化している現状を思うといい)特にアメリカがイラク戦争とともに衰退し、同時に社会民主主義も無力化した。その世界において、1)欧州における危機(EUの危機、金融の課題)2)ラテンアメリカの台頭 3)太平洋(西太平洋)をめぐるアメリカ、中国の覇権争い。その3つをテーマとして挙げた。
特に欧州においてネグリ氏が述べていた事は、まさに「国民国家」は左翼のフェティシズムとなり、資本家は「国民国家」ではなく、国境を超えている=グローバル化していると、(もはやEUは国家をこえているが)そのなかで政治的な労働者階級の運動が無意味化しているという現実。
個人的な経験からも、実際に欧州の現状は、旧植民地の人々が物理的な旧来の労働力から、資本を持ったり、認知的な労働に従事し、植民地の出身の上司、または会社オーナーが国の根幹を支えているのも事実である。しかも金融も、労働力も国境をを超えている。多分、この状況は、日本で学者や官僚をやっている人には実感できないだろうと思う。ネグリ氏がいうような認知的な労働をする会社は、インド資本で、レバノン人が社長で、英国人が経理をし、ポーランド人が企画をし、オランダ人が営業をし、マーケットは欧州と中東というイメージ。しかも仕事のワークスタイルもWEBによるネットワークで変化しているので、正規社員が少ないし、別に日本のようにそれを問題視することもない。
ラテンアメリカは、ブラジルとアルゼンチンの台頭、そのなかで民族主義に移行する力もあるが、決して古い体制には戻らないとネグリ氏は述べる。そもそも南米はスペイン人に歴史を粉砕されてしまっているので、そもそも欧州の亜流のようなところがある。
そして太平洋(姜氏は東アジアの中韓日と還元したが)は、西太平洋が新しいフロンティアとしてアメリカが偏在し、また欧州、南米、また中東から力をシフトしているとネグリ氏は述べる。それは現在のアメリカの先端は、西海岸の情報産業であることもあるし、いわゆる世界の軸が、かつてはジェノバ、ロンドン、ニューヨーク、そして今は西海岸だという現実だろう。ナショナリズム、覇権主義が台頭する中国との向き合いがどうなるか。ネグリ氏は、中国に対する米国の地政学的なチャレンジがあり、中国に対する不信をベースに、太平洋がどうリバランスされるかという、とても難しい問題と言っていた。
話はとても面白くグローバルだったが、一部の左翼運動家の方々には、なにかにネグリ氏のお墨付きをもらいたいというのが強くあり、閉口した。
対談にて姜氏は、主権者の25%しか自民党に入れていないのだから、あれは国民の意思とはかけ離れているとか言い出し、じゃあ民主党政権も同じだったろと思うが、それはさておき、どうしてこういう政治的アジテートを許すのかが、しかも東大の看板背負ってと、言論空間の質の低さと言うか、政治工作し放題の現状には、まさに日本は自由な国なんだと痛感した。
それでもナショナリズムの高まりがとか連呼し、しまいには反原発、反ナショナリズムですよねとか、ネグリ氏が話している言葉じりから還元した始末。そりゃ、中国、朝鮮が民主的であり、自由な政治風土をもつ、ネットワーク化された国々になってたら、反ナショナリズムもそうだと思うが、反原発はそもそも技術の話であり、そこを核とか政治的なアジテーションの力技に持ち込もうとするのも(いつでも核爆弾作れるからと)知性の瓦解と言わざる得ない。
ネグリ氏の講演を聞いたつもりが、最後に残ったのは、姜さん、日本で吠えていないで、母国、そして中国でがんばってください。心から応援しますから、という気持ちだった。