
北京オリンピックをめぐる話は、大変にネット掲示板を賑わせていた。
韓国の放送局が開会式の映像をフライングしてしまったことに中国のネットが噛みつき、閉会式で中国の映像に朝鮮半島から光が出ていない、日本海と表示がある等、韓国人もいつも通り高血圧気味に騒いだ。本当にやれやれと、村上春樹の登場人物ではないが思ってしまう。
その北京オリンピックを巡る不思議のひとつに、オープニングの花火に関するCG問題があった。巨人の足が花火で打ち上げられ、次第にその足跡がメイン・スタジアムに近づいていく映像だ。このプロジェクトは、万里の長城を1万m延長するプロジェクト等で名声を得、その後日本からニューヨークに活動場所を移して世界的なアーティストとなっている蔡國強の作品である。コンセプトだけで、やはり凄い人だと身震いする。日本人の作家とは、スケールが違う存在だ。
火薬、火は彼の作品の核となる要素であり、今回の花火もまさにそうだった。花火は現地でも上がっていたのは事実だが、映像はCGで補完されているというのが問題となった。日本のメディアは(僕はフジの朝の番組で笠井アナウンサーが得意げに批判しているのを見たが)まるで偽装体質の一環のように報じていた。
北京に関する過剰な批判は、少なくともこの件については、メッセージが大切なのであり、別にCGで補完していようと構わない。映像とはそういうものだ。映像が真実であり、真実は映像に写らないということを、理解していない。映像は真実を作り出すが、誹謗は真実も打ち壊す。
食品の安全、公害等、いまだから日本は批判できるのではないだろうか。無論中国人に文化的差異以上の問題がないというわけではないが、偽装米の問題は、現に日本人が引き起こしている。過去には日本人もまだ見識が浅かった時代はあったはずであるし、中国に対する日本人の負の感受性も少し過剰気味だと思う。
なんでも味噌糞一緒に言うのは正しくない。良いものは良いと認め、それだからこそ、誤りを指摘できるのだと思う。
旧友の個展と変貌する表参道

表参道から明治通りに抜ける小道を歩いていくとCafe mi mondoという小さなギャラリーがある。そこで二十年来の友達の画家が3月9日(日)まで個展を開いている。ちょうど初日にオープニングがあるというので、普段は行かない原宿の街に出かける。ここ数年の変化は凄まじく、また魅力的だった。僕は新しく出来たというビブレ跡のファッションビルにある、マルタン・マルジェラ店舗にて、22番・白いスニーカーを買ってしまってから、その脇にある小道をギャラリーへと急いだ。その少し前までは静かな住宅街だった小道にも、表通りを模したファッショナブルな店舗群が地下茎のように進出している。
90年初頭以来、日本の自力での景気は下降の一途であるが、海外の資本が確実に日本の風景を変貌させたのだと思う。表参道の表側には、軒並み海外資本のブランドビルが立ち並び、日本のブランドは地下茎に逃げ込むかのようだ。(まあ勿論、代々木公園は米軍住宅の跡地であるし、歴史的にバタ臭い街なのだけど)

それはさておき、旧友の画家・福川氏の個展は盛況だった。バービー人形と髑髏をモチーフにカラフルな印象の連作を展開していた。客層もポーランド人、オランダ人等、国際的だった。彼は8年フランスに在住した後、日本に戻ってからも精力的に画を描いている。
春めく週末の一日、表参道の地下茎をさ迷いながら愉しみ、神社の奥にあるギャラリーに行ってみるのも面白いと思う。
Damian Hearstの髑髏、アートの現在

ダミアン・ハーストの新作が話題になって久しい。髑髏にダイアをちりばめた作品は、すでに百億円以上の価格であり、それもリアルな髑髏一面にダイアモンドを惜しげもなく使って作られているのだから、非常に分かりやすく価格を正当化できる。
21世紀になり、現在年間5%を超える世界経済の膨大な拡張のなかで、1990年代の約6倍以上のお金が世界を駆け巡っているという。そこで誕生したのは、オイルマネーの大富豪ばかりでなく、その投資サービスを行う金融関係者であったり、新興国の事業家であったりする。彼らが自分たちを証明=現在のエスタブリッシュメントとして存在するために使う莫大な金が、アートマーケット、服飾品業界等、さまざまな奢侈産業に流れ込んだ。
顔のない金は、あたかもリアルな顔を持つ人になりたがり、新しい仮面を必要とする。もはや、アートマーケットも知性の台頭する領域でもなく、精神性が尊重される場ではなくなった。つまり、1億円の金でできた椅子だとか、PR目的で作られる話題性を創出するための”商品”と等価になったのである。大学の講師で、作家でもある椿氏の話では、現在のアートマーケットでは、「分かりやすさ」が大事であり、新しい作家を探して(新規商品確保のために)ギャラリー経営者たちは奔走しているそうだ。濡れ手に粟の状況、つまりバブルということだ。
古来、金は聖なるものだった。ギリシアの寺院には、貴金属、穀物が集められ、それを原資に”銀行”が誕生したという。無論その金が巨大な寺院建築も生み出し、世界の美術品は聖なる金が、新しい仮面=顔を生み出してきたのが人の歴史である。
その顔が、”アニメ風絵画”であったり、鮫の樹脂漬けであったり、この髑髏であるのが現在の社会である。アートは自由になったという人が多いが、表現されたものがすべてアートであるわけではない。しかし、現在そうでないと言い切れるものは誰もいない。行き場を失った金は暴走し、世界の秩序を破壊している。壮大なトランザクションが生み出すのは、蓋し欲望の平準化である。
ノアの洪水で流される民と同じく、世界の生活・文化が暴走する金に破壊されつつある。その破壊の果てに生み出される顔は、果して人の顔をしているのだろうか。
