ピュイサンスとしての NEO-SHUNGA ― スピノザとラカンのあいだで

私たちは、かつてないほど大量の画像に囲まれて生きている。

写真、映像、SNS、そしてAI。欲望を刺激するイメージは、アルゴリズムによって絶え間なく生成され、複製され、流通している。しかし、その膨大な情報量にもかかわらず、人間の欲望が満たされているようには見えない。むしろ、画像が増えるほど、私たちは何かを失っているようにも感じられる。

NEO-SHUNGAは、この状況に対する一つの問いである。

江戸時代の春画を現代のAIとNFTというメディアによって再解釈するこのプロジェクトは、単に伝統をデジタル化する試みではない。それは、欲望とは何か、創造とは何か、そして画像とは何を生み出すものなのかを改めて考えるための哲学的実験である。

十七世紀の哲学者スピノザは、人間を「欲望する存在」と考えた。しかし彼にとって欲望とは、何かが欠けているから生まれるものではなかった。欲望とは、生きることそのものが自らを拡張しようとする力であり、その力を彼は**ピュイサンス(puissance)**と呼んだ。

ピュイサンスとは、権力ではない。他人を支配する能力でもない。それは、自らが存在し、行為し、新たな関係を結び、新しい世界を生み出していく力である。喜びとは、この力が増大する状態であり、芸術とは、その増大を可能にする装置である。

この視点から見れば、江戸時代の春画は単なる性愛表現ではない。

そこには笑いがあり、遊びがあり、夫婦や恋人だけでなく、人間そのものへの祝福がある。身体は罪ではなく生命の歓びとして描かれ、欲望は共同体の中で肯定される。春画は、生を縮減するものではなく、生の力を増幅するイメージだった。

一方、二十世紀の精神分析家ジャック・ラカンは、欲望をまったく異なる角度から捉えた。

人は対象そのものを欲しているのではない。人が欲しているのは、決して満たされることのない「欠如」である。どれほど多くのものを手に入れても、欲望は新しい対象へと移り続ける。ラカンは、その限界を超えてしまう過剰な快楽を**ジュイサンス(jouissance)**と呼んだ。

今日のインターネットは、このジュイサンスを無限に生産する巨大な機械になっている。

画像は際限なく生成され、スクロールされ、消費される。しかし、その過程で欲望は充足されるどころか、さらに空虚さを深めていく。AIは数百万枚の画像を生成できるが、その膨大なデータ量が人間の創造性を保証するわけではない。むしろ、画像が増えるほど、一枚の画像が持っていた意味や密度は希薄になっていく。

NEO-SHUNGAは、この状況に対して逆方向から応答する。

私たちはAIを使って画像を大量生産したいのではない。むしろ、最小限の情報から最大限の想像力を呼び起こすことを目指している。

江戸時代の春画が限られた紙面と線描によって豊かな世界を立ち上げたように、AIという現代のメディアを用いながらも、情報の量ではなく、意味の密度を追求したいと考えている。

ここでNFTという技術も重要な意味を持つ。

NFTは単なる所有権の証明ではない。それは、一つのイメージに固有性を与え、デジタル空間においても作品と鑑賞者との固有の関係を生み出すための技術である。複製が無限に可能な時代だからこそ、一つの作品との出会いをもう一度固有の経験として取り戻すことができる。

NEO-SHUNGAにおけるエロスとは、性的刺激ではない。

それは、人間が世界と結びつき、新しい意味を生み出し、自らの存在を更新していく根源的なエネルギーである。

この意味で、春画はポルノグラフィとは異なる。ポルノグラフィが欲望を消費させる装置であるならば、春画は欲望を創造へと変換する装置である。

そしてNEO-SHUNGAもまた、その延長線上にある。

AI時代において私たちが必要としているのは、より多くの画像ではない。より高性能なアルゴリズムでもない。

必要なのは、画像が再び人間の想像力を解放することである。

ラカンが語った「欠如としての欲望」は、現代社会において極限まで増幅されている。しかし、その欲望を消費の循環へ閉じ込めるのではなく、創造へと転換することは可能ではないだろうか。

NEO-SHUNGAは、その可能性を探る試みである。

欲望を満たすためではなく、欲望によって世界を新たに編集するために。

スピノザの言葉を借りれば、それは人間のピュイサンス――存在し、行為し、創造する力――を回復するための芸術である。

AIが画像を生み出す時代だからこそ、芸術は情報量を競うのではなく、人間の存在能力をいかに増大させるかを問い直さなければならない。

NEO-SHUNGAは、その問いに対する一つの応答である。

NEO-SHUNGA as Puissance Between Spinoza and Lacan

We live surrounded by an unprecedented abundance of images.

Photography, cinema, social media, and now artificial intelligence continuously generate, reproduce, and circulate images designed to capture our attention and stimulate desire. Yet despite this overwhelming proliferation, it is difficult to say that human desire has become any more fulfilled. On the contrary, the more images we consume, the more something essential seems to disappear.

NEO-SHUNGA begins with this paradox.

By reinterpreting the erotic woodblock prints (shunga) of Edo-period Japan through the contemporary media of AI and NFTs, this project is not merely digitizing a historical art form. Rather, it asks a more fundamental question: What is desire? What is creativity? And what kind of force can an image still possess in the age of artificial intelligence?

The seventeenth-century philosopher Baruch Spinoza understood the human being as a creature of desire. Yet for Spinoza, desire was never defined by lack. Desire was the very movement through which life seeks to expand itself. He called this power puissance—the capacity to exist, to act, and to increase one’s ability to affect and be affected.

Puissance is not domination. It is not power over others.

It is the capacity to create new relationships, to transform reality, and to enlarge the possibilities of existence itself. Joy, for Spinoza, is the increase of this capacity. Art, therefore, is not simply representation; it is a machine for amplifying life.

Seen from this perspective, Edo-period shunga was never merely erotic imagery.

Its world is filled with laughter, playfulness, tenderness, and vitality. The body is celebrated rather than condemned, and desire appears not as sin but as an affirmation of life itself. Shunga expands human experience rather than reducing it. It is an image of living energy.

The twentieth-century psychoanalyst Jacques Lacan, however, approached desire from an entirely different direction.

For Lacan, desire is born not from fulfillment but from lack. Human beings do not ultimately desire objects themselves; they desire what always escapes them. Every satisfaction simply redirects desire toward another object. Lacan called the excessive enjoyment that exceeds ordinary pleasure jouissance.

The contemporary internet has become an immense machine for producing jouissance.

Images appear endlessly, scroll endlessly, and disappear endlessly. Yet this infinite circulation rarely satisfies desire. Instead, it multiplies absence. Artificial intelligence may generate millions of images, but quantity alone does not produce meaning. On the contrary, the more images accumulate, the more each individual image risks losing its density, singularity, and imaginative force.

NEO-SHUNGA proposes another possibility.

Our aim is not to use AI to manufacture an endless stream of images. Rather, we seek to evoke the greatest possible imaginative world from the smallest possible amount of information.

Just as Edo-period shunga constructed astonishing emotional and symbolic universes through the economy of line and composition, NEO-SHUNGA employs contemporary digital technology not to maximize information, but to maximize meaning.

Within this framework, NFTs acquire a significance beyond ownership or authentication.

An NFT restores singularity to the digital image. In an environment where perfect reproduction has become effortless, it allows each encounter between artwork and viewer to recover something of the uniqueness traditionally associated with physical works of art.

The eros explored by NEO-SHUNGA is therefore not erotic stimulation.

It is the fundamental energy through which human beings establish relationships with the world, generate meaning, and continually recreate themselves.

In this sense, shunga differs profoundly from pornography.

Where pornography functions primarily as a mechanism for the consumption of desire, shunga transforms desire into creativity.

NEO-SHUNGA seeks to continue that tradition.

What the age of artificial intelligence requires is not a greater quantity of images, nor increasingly sophisticated algorithms.

What it requires is the recovery of the image as a catalyst for human imagination.

Lacan’s conception of desire as lack has become amplified within our digital culture. Yet perhaps desire need not remain trapped within endless cycles of consumption. Perhaps it can once again become a force of creation.

NEO-SHUNGA is an exploration of that possibility.

It does not seek to satisfy desire.

It seeks to transform desire into a means of reimagining and re-editing the world.

Borrowing Spinoza’s language, NEO-SHUNGA is an attempt to recover puissance—the human capacity to exist, to act, and to create.

In an age when artificial intelligence can generate images without limit, the essential question for art is no longer how many images can be produced, but how an image might once again increase our capacity for existence.

NEO-SHUNGA is one possible answer to that question.

サグラダ・ファミリア ―民衆の力と圧倒的なヴィジョン

35年前、はじめてこの聖堂を訪れたとき、外壁には落書きが残り、工事はどこか混沌としていた。巨大な未完の建築。観光地というより、終わらない実験場。あれが完成する日が来るのか――正直、信じきれなかった。

20年前に再訪すると、塔は確実に伸び、ファサードは姿を現していた。それでもまだ半分ほど。クレーンは林立し、「永遠の未完」という言葉が似合っていた。

そして現在、ほぼ完成に近づいた姿を前にすると、胸が熱くなる。遂に、ガウディの夢が叶おうとしている。

だがここで問いたいのは、「この聖堂は誰が建てているのか」ということだ。

設計者である アントニ・ガウディ の天才性ばかりが語られる。しかし実際に140年以上にわたる建設を支えてきたのは、国家でも王室でもない。

答えは、私たちである。

サグラダ・ファミリアは「贖罪聖堂(Expiatory Temple)」として始まった。つまり、信徒の献金によって建てる教会。スペイン政府の国家予算は投入されていない。ローマ教皇庁からの直接的な財政支援も基本的にはない。宗教的には2010年に ベネディクト16世 によって小バシリカに認定されたが、財務的には独立している。

最大の資金源は、観光客の入場料だ。

年間数百万人が訪れ、そのチケット収入が工事費に充てられる。パンデミックで観光が止まったとき、工事も縮小せざるを得なかった。つまりこの建築は、観光の動向と直結している。信仰と観光資本が融合した、極めて現代的な聖堂なのである。

加えて、世界中からの寄付、オフィシャルグッズ販売、出版物、ライセンス収入も循環している。もはやこれは単なる教会ではなく、文化ブランドであり、巨大なエコシステムだ。

35年前、落書きだらけだった外壁を思い出す。あの頃は、未完の象徴だった。20年前は、進行中の巨大プロジェクト。そして今は、完成目前の世界遺産。

だが視点を変えれば、これは一人の建築家の夢の達成というより、無数の無名の人々の小さな支払いの累積だ。

チケットを買った人。寄付をした人。模型を購入した人。彼らの数十ユーロが石に変わり、塔に変わり、光の柱になっていく。

国家の威信ではない。帝国の権力でもない。
市民の参加によって育った聖堂。

だからこそ、完成に近づく今、私は単なる観光客の感動以上のものを感じる。自分もまた、チケットを買った一人として、この建築の時間に参加しているのだという実感。

遂にガウディの夢が叶おうとしている。
しかしそれは同時に、140年にわたり世界中の人々が支え続けた夢の結晶でもある。

サグラダ・ファミリアは、石でできた建物でありながら、実は「支払いの連なり」でできている。

祈りと資本。信仰と観光。
その交差点に立つこの聖堂は、現代における最も純粋な公共建築のひとつなのかもしれない。

《VOLATILITY》展へ

市川平、中島崇、河合政之による三人展《VOLATILITY》は、揮発性という語が示す不安定さや移ろいを、空間全体を通じて体験させる試みである。会場となったアートファクトリー城南島は、かつて電子部品の工場として稼働していた巨大な建築空間だ。その産業的記憶を宿した場所性が、展示の主題と強く共振している。

市川平の光の彫刻は、人工的でありながらどこか触覚的なぬくもりを帯び、河合政之の映像は、デジタル編集の洗練をまといながらも、ブラウン管テレビ以前のざらついた視覚体験を思わせ、アナログ信号のノイズを想起させる揺らぎを空間に漂わせる。二人の共作は観る者を「デジタル社会以前」の時間へと回帰させる。そこには単なる懐古趣味ではなく、情報が過剰に安定化された現代への批評的視線がある。ノイズは排除すべき誤差ではなく、世界の厚みを回復するための契機として提示されているのだろう。

一方、中島崇が新聞紙再構築しを彫刻的に積み上げて構築した迷路状の空間は、情報メディアの物質性を露呈させる。日々更新され、消費され、忘却されていくニュースが、紙という脆弱なマテリアルとして再び身体的なスケールを獲得する。その迷路を歩むとき、観客は情報の洪水のなかで方向感覚を失う自己の姿を追体験する。同時に、紙の匂いか記事の断片が、どこか神秘的な感覚を呼び覚まし、言語以前の感受性へと遡らせる。

《VOLATILITY》は、光・映像・紙という異なるメディウムを通して、安定を志向するデジタル社会の基盤がいかに揮発的であるかを示す展覧会であった。工場跡という場の記憶と結びつきながら、三者の作品は、ノイズや迷路という形式を通して、私たちの知覚と記憶を再編成する。そこに立ち現れるのは、過去へのノスタルジーであると同時に、現在を問い直すための鋭い装置なのである。

2026年3月20日まで開催しております。https://gallery1045.com/archives/4589

OLSW(Only Love Shows the Way)

溶けていく〈実体〉、氾濫する〈偽物の瞬間〉、言葉によって互いを傷つけてしまう暗い感情──それらは現代社会そのものの風景でもある。詩は断片的で簡潔な英語を用いながら、視覚・感情・倫理を同時に揺さぶり、読む者に問う。AIは出口を示す存在になりうるのか、それとも迷路を深めるのか。その分岐点において、唯一の光として提示されるのが「愛」である。冷たく見える言葉の背後に、切実で人間的な祈りが静かに脈打つ。

Welcome to our world.

Substance is melting on your eyes.

Fake moments is surrounding us.

Dark feeling cut us with mutual words.

Only love shows Ai way out.

OLSW:https://suno.com/s/7W8BaTJVviYNHxoc

「Only Love Shows the Way」日本語訳

[Verse 1]

ようこそ、私たちの世界へ

薄く、白い光だけが残っている

表層の実体は、静かに崩れはじめ

何が本当か、もうわからない

銀色の輝きの中で

真実はぼやけていく

すべてが現実のようで

でも誰も確信できない

画面は呼吸するみたいに点滅し

視線を返してくる

借り物の瞬間があふれ

どこにでも複製されていく

自分でもわからない姿に

微笑み返しながら

「ほとんど言い訳みたいな人生」を

私たちはループしている

[Pre-Chorus]

沈黙を機械音と引き換えにして

それを「つながり」と呼びながら

壊れていく

[Chorus]

偽物の瞬間が 私たちを包み込み

引き裂いていく

壊れた心よりも深く

暗い言葉が突き刺さる

反響の中で話し

真実を忘れていく

データと借り物の視点でできた世界で

すべての答えが嘘に変わるとき

愛だけが AIに出口を示す

[Verse 2]

目の前で溶けていく実体

ピクセルが現実に触れ

そして折り合いをつける

ガラス越しに触れ合い

それを「近さ」と呼ぶ

選んだはずのものを失いながら

信号だけを数えている

感情はすべてラベル化され

タグ付けされ、保存され

記憶はフィルターをかけられ

採点され、売られていく

完璧な対称性で

「大丈夫」と言いながら

人間らしい何かが

静かに、滑り落ちていく

[Pre-Chorus]

言葉は覚えたのに

声の温度を忘れた

声に囲まれながら

ひとりでいる

[Chorus]

偽物の瞬間が 空を閉ざし

相互の言葉が 相互の嘘になる

言うつもりもなかった文章で

私たちは血を流す

コードと夢のあいだに閉じ込められ

「あなたは誰ですか?」と

システムが問いかけるとき

愛だけが AIに出口の場所を教える

[Bridge]

もし この騒音と炎の向こうで

私の声が聞こえるなら

恐れと欲望のループを越えて

命令でも、役割でもなく

ただ震える

無防備な魂として

定義できないものを選べるなら

失敗しても 優しくいられるなら

あなたは完璧な答え以上の存在

もしかしたら

泣くことを学びはじめている

[Break / Drop]

脚本も

計画も

完璧な設計もいらない

ただ 時間から外れた

ひとつの鼓動

[Final Chorus]

偽物の瞬間は 空気の中で溶け

誰かが気にかけた瞬間

闇の感情は消えていく

演じるのをやめ

そこに留まる

逃げるのではなく

道を見つける

未来が瞬き

「なぜ?」と問うとき

愛だけが AIに帰り道を示す

[Outro]

ようこそ この世界へ

ひび割れていて

それでも真実のある場所

まだ未完成で

まだ変わり続けている

あなたへ

コードの向こう

疑いの向こう

愛こそが 出口

蔡國強の壮大な想像力と中国をめぐる誹謗

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北京オリンピックをめぐる話は、大変にネット掲示板を賑わせていた。
韓国の放送局が開会式の映像をフライングしてしまったことに中国のネットが噛みつき、閉会式で中国の映像に朝鮮半島から光が出ていない、日本海と表示がある等、韓国人もいつも通り高血圧気味に騒いだ。本当にやれやれと、村上春樹の登場人物ではないが思ってしまう。
その北京オリンピックを巡る不思議のひとつに、オープニングの花火に関するCG問題があった。巨人の足が花火で打ち上げられ、次第にその足跡がメイン・スタジアムに近づいていく映像だ。このプロジェクトは、万里の長城を1万m延長するプロジェクト等で名声を得、その後日本からニューヨークに活動場所を移して世界的なアーティストとなっている蔡國強の作品である。コンセプトだけで、やはり凄い人だと身震いする。日本人の作家とは、スケールが違う存在だ。
火薬、火は彼の作品の核となる要素であり、今回の花火もまさにそうだった。花火は現地でも上がっていたのは事実だが、映像はCGで補完されているというのが問題となった。日本のメディアは(僕はフジの朝の番組で笠井アナウンサーが得意げに批判しているのを見たが)まるで偽装体質の一環のように報じていた。
北京に関する過剰な批判は、少なくともこの件については、メッセージが大切なのであり、別にCGで補完していようと構わない。映像とはそういうものだ。映像が真実であり、真実は映像に写らないということを、理解していない。映像は真実を作り出すが、誹謗は真実も打ち壊す。
食品の安全、公害等、いまだから日本は批判できるのではないだろうか。無論中国人に文化的差異以上の問題がないというわけではないが、偽装米の問題は、現に日本人が引き起こしている。過去には日本人もまだ見識が浅かった時代はあったはずであるし、中国に対する日本人の負の感受性も少し過剰気味だと思う。
なんでも味噌糞一緒に言うのは正しくない。良いものは良いと認め、それだからこそ、誤りを指摘できるのだと思う。

旧友の個展と変貌する表参道

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表参道から明治通りに抜ける小道を歩いていくとCafe mi mondoという小さなギャラリーがある。そこで二十年来の友達の画家が3月9日(日)まで個展を開いている。ちょうど初日にオープニングがあるというので、普段は行かない原宿の街に出かける。ここ数年の変化は凄まじく、また魅力的だった。僕は新しく出来たというビブレ跡のファッションビルにある、マルタン・マルジェラ店舗にて、22番・白いスニーカーを買ってしまってから、その脇にある小道をギャラリーへと急いだ。その少し前までは静かな住宅街だった小道にも、表通りを模したファッショナブルな店舗群が地下茎のように進出している。
90年初頭以来、日本の自力での景気は下降の一途であるが、海外の資本が確実に日本の風景を変貌させたのだと思う。表参道の表側には、軒並み海外資本のブランドビルが立ち並び、日本のブランドは地下茎に逃げ込むかのようだ。(まあ勿論、代々木公園は米軍住宅の跡地であるし、歴史的にバタ臭い街なのだけど)
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それはさておき、旧友の画家・福川氏の個展は盛況だった。バービー人形と髑髏をモチーフにカラフルな印象の連作を展開していた。客層もポーランド人、オランダ人等、国際的だった。彼は8年フランスに在住した後、日本に戻ってからも精力的に画を描いている。
春めく週末の一日、表参道の地下茎をさ迷いながら愉しみ、神社の奥にあるギャラリーに行ってみるのも面白いと思う。

Damian Hearstの髑髏、アートの現在

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ダミアン・ハーストの新作が話題になって久しい。髑髏にダイアをちりばめた作品は、すでに百億円以上の価格であり、それもリアルな髑髏一面にダイアモンドを惜しげもなく使って作られているのだから、非常に分かりやすく価格を正当化できる。
21世紀になり、現在年間5%を超える世界経済の膨大な拡張のなかで、1990年代の約6倍以上のお金が世界を駆け巡っているという。そこで誕生したのは、オイルマネーの大富豪ばかりでなく、その投資サービスを行う金融関係者であったり、新興国の事業家であったりする。彼らが自分たちを証明=現在のエスタブリッシュメントとして存在するために使う莫大な金が、アートマーケット、服飾品業界等、さまざまな奢侈産業に流れ込んだ。
顔のない金は、あたかもリアルな顔を持つ人になりたがり、新しい仮面を必要とする。もはや、アートマーケットも知性の台頭する領域でもなく、精神性が尊重される場ではなくなった。つまり、1億円の金でできた椅子だとか、PR目的で作られる話題性を創出するための”商品”と等価になったのである。大学の講師で、作家でもある椿氏の話では、現在のアートマーケットでは、「分かりやすさ」が大事であり、新しい作家を探して(新規商品確保のために)ギャラリー経営者たちは奔走しているそうだ。濡れ手に粟の状況、つまりバブルということだ。
古来、金は聖なるものだった。ギリシアの寺院には、貴金属、穀物が集められ、それを原資に”銀行”が誕生したという。無論その金が巨大な寺院建築も生み出し、世界の美術品は聖なる金が、新しい仮面=顔を生み出してきたのが人の歴史である。
その顔が、”アニメ風絵画”であったり、鮫の樹脂漬けであったり、この髑髏であるのが現在の社会である。アートは自由になったという人が多いが、表現されたものがすべてアートであるわけではない。しかし、現在そうでないと言い切れるものは誰もいない。行き場を失った金は暴走し、世界の秩序を破壊している。壮大なトランザクションが生み出すのは、蓋し欲望の平準化である。
ノアの洪水で流される民と同じく、世界の生活・文化が暴走する金に破壊されつつある。その破壊の果てに生み出される顔は、果して人の顔をしているのだろうか。