
人間は、象徴を模倣することで社会を維持している。
男らしさ、女らしさ、知性、成功、若さ、美しさ——それらはすべて、どこかで見た断片を反復しながら成立している。広告、映画、SNS、文学、恋愛、政治、宗教。われわれは「本物」を生きているつもりで、実際には象徴のかけらを寄せ集め、自分という演出をかろうじて保っている。しかしその構造は、驚くほど脆い。
最近、VRやアバター、バ美肉(バーチャル美少女受肉)文化について考えていた。男性が美少女アバターを纏い、女性的な声や所作を獲得し、ネット空間で「存在」していく文化である。そこではしばしば、「身体は編集可能だ」「性別は流動的だ」という言説が現れる。だが私は、その種の議論にどこか浅薄さを感じていた。なぜなら、現実の身体はそんなに自由ではないからだ。
私は能喜多流で稽古を受け、東北(和泉式部の霊)の仕舞を舞ったこともある。しかしだからといって、「女性になった」と感じたことは一度もない。観客からどう見えるか、型としてどう成立するか、ただそれだけのことだ。能は、主体を女性化する芸能ではない。むしろ逆に、主体を消していく芸能である。自分の感情やアイデンティティを膨らませるのではなく、型へ沈めていく。だからこそ、現代の「異性を演じること」と「異性になること」を混同する風潮には、強い違和感を覚える。
もちろん、男が夢想する女性像と、現実の女性が乖離しているという指摘には一理ある。広告やメディアが再生産する「女性らしさ」を、生身の人間が維持するのは極めて難しい。若さ、美貌、愛嬌、柔らかさ、性的魅力——それらを高度に保ち続けるには、膨大な労力とコストが必要になる。銀座のホステスやアイドル、女優、インフルエンサーなどは、ある意味で「女性性維持労働」の専門家といえるだろう。しかし現実の人間は老いる。疲れる。病む。怒る。摩耗する。街を歩くおばさんたちが広告の中の「女性らしさ」を体現していないのは、ごく当たり前のことだ。むしろ、現実身体の方がリアルだからだ。
だが現代では、その関係に逆転が起きている。現実の女性よりも、アニメやアバター、AI生成画像の方が「女性らしい」と感じられる瞬間がある。そこには老化も、生殖も、労働疲労も、重力も存在しない。つまり、現実身体のコストを切断した「純粋女性記号」が流通しているのだ。バ美肉文化の興味深い点もここにある。多くの場合、それは現実女性への接近ではない。むしろ、「男性が夢想する女性記号」への接続である。巨大な瞳、高い声、永遠の若さ、従順さ、可愛らしさ。しかしそれは「女性そのもの」ではない。現実の女性は、生理もあれば、加齢もあれば、社会的暴力や労働も抱えている。アニメ的女性像は、その生々しい現実を削ぎ落とした後に残る、抽象化された記号に過ぎない。
だが、ここでさらに重要なのは、ネットや書物やVR空間などの象徴界と、リアルな世界とは別次元だということである。最近の議論では、「身体も社会構築物だ」という方向へ流れがちだ。しかし、現実の身体はそんなに柔らかくない。老化、重力、疲労、病気、死——身体は、象徴を裏切り続ける。だから私は、VRやアバター文化に対して「現実を編集できる」という万能感を感じるたび、奇妙な死臭を嗅ぎ取ってしまう。
ここで言う死臭とは、腐敗臭ではない。むしろ逆である。完璧すぎるもの、劣化しないもの、時間が沈殿していないものから漂う臭いだ。AI画像の完璧な笑顔、永遠に若い顔、ノイズのない声、均質化された可愛さ、最適化された人格。それらは最初、美しく見える。しかし長く見ていると、どこか「生きていない」のだ。なぜなら、生とは本来、ノイズだからである。疲れ、ズレ、失敗、老い、崩れ。そうしたものを通過した身体にしか、生の厚みは宿らない。
私は、人の顔や所作に残る「吹き溜まり」のような痕跡を、しばしば見ることがある。長年の接客で染みついた愛想笑い。疲労が沈んだ肩。諦念と虚栄が混じった歩き方。見栄と敗北が同時に刻まれた目。そこには、人が長年「何か」を模倣し続けた痕跡が残っている。男らしさ、女らしさ、成功者、知識人、母親、父親。誰も完全にはなれない象徴を、人生をかけて演じ続け、その劣化が顔に沈殿していく。そこに哀れを感じる。しかし同時に、それが「生」なのだとも思う。
美学が危険なのは、この現実の摩耗を嫌悪し始めるからだ。優生学やファシズムは、その典型だろう。健康、若さ、純粋性、整った身体——そうした「美」が政治と結びつくと、老いや障害や醜さは排除の対象になる。人の弱さが集団化し、美しい共同幻想へ接続していくのだ。現代のSNSも、構造的には似ている。フィルターで加工された顔、最適化されたライフスタイル、清潔な空間、理想化された人格。現実身体への嫌悪が、静かに共有されている。
だが、人は完全には騙されない。違和感に、すぐ気づく。なぜなら、人は「美そのもの」ではなく、「現実を通過した美」を見ているからだ。本当に深い美には、必ず死の影がある。
能が面白いのは、面(仮面)をつけながら、なお死を隠し切らないところだ。面は固定されている。しかし、老いた身体、摩耗した声、呼吸、間、重心が、その奥から滲み出る。つまり能は、象徴を象徴として扱う芸能である。だからこそ、逆に深いのだ。
現代は、象徴を現実そのものとして扱い始めている。しかし、リアルな世界は別次元だ。身体は、最後まで象徴を裏切る。そして、その裏切りの痕跡にこそ、生は宿っているのだと思う。



