「現実の編集権」を意識する。

吉川英治の三国志を読みつつ、思ったところを書いてみる。

後漢末期、王朝の統治はすでに深い腐食の中にあった。その象徴的存在が、霊帝である。彼の治世は名目上こそ皇帝による支配であったが、実際の権力は宮廷内の宦官勢力、とりわけ十常侍と呼ばれる一団に握られていた。

十常侍とは、皇帝の側近として仕える宦官たちの中でも、特に強い影響力を持った者たちを指す。彼らは人事や財政、情報の流通に深く関与し、官僚機構を迂回して直接的に政治を動かす力を持っていた。地方で何が起きているのか、誰が忠実で誰が反抗的なのか。そうした報告はすべて彼らの手を経由して皇帝に届けられる。だがその情報は、必ずしも事実そのままではない。彼らに都合のよい形に選別され、加工され、時には意図的に歪められていた。

結果として霊帝は、現実を直接認識することができない構造の中に置かれていた。彼が見ていたのは、世界そのものではなく、すでに整えられた「世界の像」である。十常侍にとって、皇帝とは統治者であると同時に、操作可能な存在でもあった。後世の史書が彼を「盲帝」と評するのは、このような状況を指している。

この構図は、単なる古代史の一挿話にとどまらない。ここには、権力のより本質的な問題が潜んでいる。すなわち、「何が現実として認識されるのか」を決定する力である。

「現実の編集権」という言葉を中心に据えるとき、私たちは単に情報の流通やメディアの影響力を論じているのではない。問題はもっと深い。何が「現実」として知覚されるのか、その編成そのものをめぐる権力について語ろうとしている。

後漢末、霊帝は世界を直接見ていたわけではない。彼が見ていたのは、十常侍によって整えられた「世界の像」だった。報告は選別され、言葉は装飾され、不都合な事実は削除される。その結果、霊帝にとっての現実は、すでに編集された後のものでしかなかった。ここで重要なのは、彼が愚かであったかどうかではない。彼の認識の回路が、外部によって構造的に規定されていたという点である。

このとき、十常侍が握っていたのは単なる権力ではない。彼らが支配していたのは、「現実の編集権」だった。

現代に目を移すと、この構造は消滅したどころか、むしろ精緻化している。ニュースは編集され、アルゴリズムは選別し、広告は意味を付与し、ソーシャルメディアは感情の強度によって情報の可視性を増幅する。私たちが触れている「現実」は、未加工の素材ではなく、複数のフィルターを通過した後の生成物である。

しかし、ここで単純な陰謀論に回収されるべきではない。現代の「十常侍」は単一の主体ではないからだ。国家でもなければ、企業だけでもない。むしろそれは、メディア、プラットフォーム、政治、そして私たち自身の選好や欲望が織りなす分散的な構造である。言い換えれば、「現実の編集権」は特定の誰かが独占しているのではなく、複数の力が競合しながら暫定的に形成されている。

それでもなお、この権力が本質的であることに変わりはない。なぜなら、人間は「与えられた現実」の外側で思考することができないからだ。何を問題とし、何を無視し、何に怒り、何に共感するか。そのすべては、すでに編集された現実の内部で起こる。ここにおいて、編集とは単なる加工ではなく、認識の地平そのものを規定する行為となる。

民主主義において、市民は主権者であると同時に、この編集された現実の受け手でもある。この二重性は決定的だ。霊帝が「知らされなかった存在」であったのに対し、市民は「選びうる存在」である。だがその選択は、常にすでに編集された選択肢の中で行われる。完全に自由な視点など存在しない。

ここで問われるべきは、「誰が編集しているのか」だけではない。「どのような編集に自らを委ねているのか」という自己の関与である。

例えば、強い言葉だけが流通する空間に身を置けば、現実は過剰に対立的なものとして立ち現れる。逆に、整えられた専門的情報だけに触れれば、現実は過度に合理的で摩擦のないものとして見えるだろう。どちらも現実の一部ではあるが、同時に偏った像でもある。私たちは、自らの接続する回路によって、異なる現実を生きている。

この意味で、現代の問題は「盲目」であることではない。むしろ、「見えていると思い込むこと」にある。霊帝は盲帝であったがゆえに問題だったのではない。彼は、自らが見ているものを現実そのものだと信じていた。その確信こそが、権力の暴走を可能にした。

現代の市民もまた、同様の危うさの中にある。情報にアクセスできることと、現実を理解していることは同義ではない。むしろ情報の過剰は、編集の不可視性を高める。何が削除され、何が強調されているのかが見えなくなるとき、編集権は最も強く作用する。

では、この構造から完全に自由になることは可能なのか。おそらく不可能だろう。人間が言語と象徴の中でしか世界を把握できない以上、何らかの編集を免れることはできない。

それでもなお、態度の問題は残る。

複数の現実に触れようとすること。

自らの見ているものが編集された像にすぎない可能性を保留すること。

そして、どの編集に加担しているのかを引き受けること。

「現実の編集権」は、もはや宮廷の奥に隠された特権ではない。それは分散し、拡張し、私たち一人ひとりの手の中にまで降りてきている。だからこそ、その扱い方は、かつてよりもはるかに倫理的な問題となった。

玉座は消えた。しかし壇上は残っている。

そして私たちは、観客であると同時に、すでにその上に立っている。

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