LAのセレブ御用達のセレクトショップと喧伝されるKITSONが原宿ラフォーレに出店し、H&Mの銀座店が出来たときのようにブームとなっている。
電通総研の消費者研究を見ていると、『他己ウケの時代』という10代の消費者像を分析したコラムがある。そこに書かれている消費者は、つまりいくつかの小グループからの情報に影響され、カリスマのようなものに影響されることのない消費者である。その構造については個々が批判なり、分析なりするといいと思う。周りの知人の意見の反映が主であり、その知人が影響されるのは、別の「半径10名の知人」である。しかしそこに新しい価値が創造される気概はない。ひたすらに受身の消費者の群れである。
H&Mの場合は、マスメディアのPR戦略が精緻に実行されたものだった。雑誌から派生するコンテンツであったり、TV情報番組での取材から、20-30代はマスメディアがしっかりと影響し、10代には「半径10名の知人」たちの誰かが共鳴したのだろう。蓋し、KITOSONも同様だと思う。特にハリウッドの若手のPR力が強かったということだ。特にハリウッドでは、セレブリティに対して海外の有名ブランドたちは、こぞって無料でいくらでも衣装を提供している。彼らは金持ちであるのに、何千万円もの高級ブランドに金を払う必要はない。CMではなく、パパラッチたちが撮る写真の露出に対しての広告費と換算されている。
東京ガールズコレクションもそうだが、アイドル化したモデルが着ているものそのものを着たい。ハリウッドスターが着ているものを着たいという、つまりアスピレーション型マーケティング(憧れを欲求させる)が成功しているのだ。インターネットを通じて複雑化しているように見えて、基本に即したシンプルなマーケティングとなっている。
ネット社会になってから、情報の流通量が増したと同時に、情報の質というのが劣化しているのかなと、僕は感じている。かつての70年代-80年代のファッションは、ファッション関係者の見解を反映し、そこで良い物と悪い物を峻別していたと思うのだが(デザイナーの才能、製品の質、職人の技術等)、これからはそういう見方などアナクロニズムとなってしまうのだろうか。
ユニクロのブランド「+J」のインタビューでジル・サンダーが言っているように、ハイファッションの感性を欲しいと思っている人たちに、安価に良いものを供給しようとする意思=民主化なのだろうか。以前ファッション界の巨匠アルマーニ氏は、自分が創ったクリエイティブが、発売後数週間したら、同じようなものがZARAに並んでいると、嘆いていた。
ファストファッションの台頭は、ブランド・モードの末期的な症状に見えてしまう。棲み分けがあるのだという人もいるけど、都内にある海外ハイファッションの店舗を見るにつけ、中国人がいなかったら、もはや商売になっていないと思うのは気のせいだろうか。
ジル・サンダー女史の参画するユニクロ
ジル・サンダーの復活である。ハイファッションの分野でなく、ユニクロというマスブランドにおいてどういう采配を振るうのかは楽しみであり、秋の店頭が今から待ち遠しい。
自らの名前を冠したブランドは、プラダへの売却された後、いまではオンワードの所有である。それにしても、現存するデザイナー自らが外に出てしまったブランドの価値については僕は疑問を持っている。確かに隠居してしまったり、体力&才能等自身の諸問題で辞めたのなら分かるけど。
ユニクロの素材開発力、流通力を得、ジル・サンダーは何を達成するのだろうか。ヨウジヤマモトの無印良品に対する関わり方と比べ、彼女の抜擢がどういう商品力を発揮するのかは見ものである。
今秋は、ユニクロに再び行列が出来るのだろうか。
電波時計を買う。深澤氏の傑作。
無印良品、+01等、ミニマルなデザインに定評のあるプロダクトデザイナーの深澤直人氏がセイコーと長年進めているセイコーパワーデザインプロジェクト。その監修の電波時計が新しくリリースされたということを知り、購入した。
シンプルな軍用時計にも似たフォルムと、明快な数字のレタリングを持つ文字盤が美しい。電波時計というと、いままで機能をフォルムに表現しようとしているものが多く、こういうミニマルで魅かれるデザインはなかった。一見、電波時計とはまったく感じられない。
アンティークの機械式時計の一日数分狂う時計で生活していると、わざわざケータイで時刻を再確認する時がある。そういう煩わしさから解放されるとともに、良いデザイン&適切な価格の時計を知ったことは、とても収穫だった。10気圧防水なので、海でも使ってみるかと考えている。
並木通りのカルティエ
腕時計が壊れた。十年間順調に動いていてくれ、ある日突然止まってしまったパシャCだ。思い起こせば、4-5年で整備に出してくださいと言われていたのを、うっちゃっていたせいである。それで銀座の高級ブティックと高級クラブが軒を連ねる並木通りに出かけた。
並木橋のカルティエにはカスタマーセンターがあり、製品の修理を受けつけてくれる。ドアマンのいる入り口から、横の階段を地下に降りると、革張りのソファが上品に配置され、美しい担当の方が修理を承る。カルティエの雑誌、モダンなフランスを感じるインテリア。やはり宝飾品の修理センターで、同じ高級品でもオーディオの修理センターとは別次元である。僕は修理を頼むと、分解整備になるという。金額は五万円程度。きちんと磨いてもらえるそうで、約一ヶ月預けることになった…やれやれ。
高級な商品を取り扱うに相応しい店の対応とコストであるが、もう少し気軽な方がいいなと思うのは身分に相応でないからだろう。なにしろ時計なんだから、綺麗な白衣を着た修理職人が対応してくる感じが良いのだと思ってしまう。でもそこでは、上品で綺麗な方々が慇懃に対応してくれるのである。満足できない僕が変なのである。
外に出るとショーケースには、美しいブローチが飾られていた。記憶が正しければ、オリジナルは二十世紀初頭のアールデコの頃のものだ。(写真のものです)そのデザインを模倣して再生したのだろう。でも初めて本物を見たので感激した。
過去の華美なフランス文化に思いを馳せる。憧れはありつつも、そういう奢侈の生活について僕の器量は妥当なのかと、軽い居心地の悪さを感じた。
<tokyotaro>
「時計」を欲しくなってしまう私

バーゼルの展示会から友達が帰国し、「新作の時計が良かったよ」と言った。僕は機械式時計の新作が出るたびに気になってしまう。我ながら、なぜだろうと不思議になってしまう。
機能としての時計は、クォーツにはじまり、デジタル、電波時計と精度は飛躍的に高まっている。しかも機能を追及した商品は価格が安い。考えてみると、二十年ほど前に機械式時計を欲しがる人は未だ少なく、本当に値が上がってきたのは二十一世紀になってからだと思う。普段の時間は、携帯電話、パソコンで十分であるし、所有欲をそそる何かがなくては「時計」は存在できない。
スイス時計業界が機械式時計の復権を願って、80年代にSWATCHのプロジェクトをはじめ、それから機械時計はファッションとして一般化していく。現在では老舗ブランドだけでなく、新しいブランドが高級品として機械時計の評価を得、もはや一部の好事家の世界ではなくなっています。ルイ・ヴィトン、グッチ等、ファッションブランドが本格的に「時計」ビジネスを始めたのも、それを加速化させているのでしょう。
欧州のアンティークショップで買ったのロレックス、ゼニス等、何個も持っているのですが、それでも欲は尽きない。そういう物欲を恐ろしいと思いながらも、ベダ社のNo.8という時計が気になっています。1996年に設立されたメーカーで、グッチのグループにいるそうです。
それにしても、自分が好きになるデザインの傾向がいつも一緒なんですよね。<tokyotaro>
