米・財務長官ポールソン氏はいまも日本を嘲笑するか。

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ポールソン米財務長官は8日の記者会見で「金融安定化法の効果を最大限発揮させるため、資本増強を含むあらゆる手段を講じる」と述べ、経営が悪化して資本不足に陥った金融機関に公的資金を使って資本注入する可能性を示唆した。(読売新聞)
そのポールソン氏は今年2月のダボス会議では日本を嘲笑していたのだが…。
08年1月下旬の世界経済ファーラム(ダボス会議)や2月上旬に東京で開かれた先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)などで、渡辺喜美金融相や額賀福志郎財務相は欧米の金融当局者や市場関係者らとの会談で、ことあるごとに「日本は金融機関への公的資金の投入が遅れたばかりに、不良債権問題を深刻化させ、デフレ不況まで招いた」と、恥を偲んで失敗談をアピール。サブプライム問題では、欧米政府が多額の損失を出した大手金融機関に対して速やかな公的資金の投入を決断すべきだと間接的に求めているが、「ポールソン米財務長官や欧州中央銀行(ECB)幹部らはどこ吹く風と聞き流し、ほとんど相手にされていない」(同)という。
やはり奢れるものは久しからず。公的資金を投入し、右往左往する米政府の行く末はどうなるのだろう。日本を真似しなくちゃならないとは、不本意なのだろうが。
それにしても、2月の記事のコメント欄を見ると、寄らば大樹とばかりに欧米を賛美する日本人たちもどうかと思う。

蔡國強の壮大な想像力と中国をめぐる誹謗

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北京オリンピックをめぐる話は、大変にネット掲示板を賑わせていた。
韓国の放送局が開会式の映像をフライングしてしまったことに中国のネットが噛みつき、閉会式で中国の映像に朝鮮半島から光が出ていない、日本海と表示がある等、韓国人もいつも通り高血圧気味に騒いだ。本当にやれやれと、村上春樹の登場人物ではないが思ってしまう。
その北京オリンピックを巡る不思議のひとつに、オープニングの花火に関するCG問題があった。巨人の足が花火で打ち上げられ、次第にその足跡がメイン・スタジアムに近づいていく映像だ。このプロジェクトは、万里の長城を1万m延長するプロジェクト等で名声を得、その後日本からニューヨークに活動場所を移して世界的なアーティストとなっている蔡國強の作品である。コンセプトだけで、やはり凄い人だと身震いする。日本人の作家とは、スケールが違う存在だ。
火薬、火は彼の作品の核となる要素であり、今回の花火もまさにそうだった。花火は現地でも上がっていたのは事実だが、映像はCGで補完されているというのが問題となった。日本のメディアは(僕はフジの朝の番組で笠井アナウンサーが得意げに批判しているのを見たが)まるで偽装体質の一環のように報じていた。
北京に関する過剰な批判は、少なくともこの件については、メッセージが大切なのであり、別にCGで補完していようと構わない。映像とはそういうものだ。映像が真実であり、真実は映像に写らないということを、理解していない。映像は真実を作り出すが、誹謗は真実も打ち壊す。
食品の安全、公害等、いまだから日本は批判できるのではないだろうか。無論中国人に文化的差異以上の問題がないというわけではないが、偽装米の問題は、現に日本人が引き起こしている。過去には日本人もまだ見識が浅かった時代はあったはずであるし、中国に対する日本人の負の感受性も少し過剰気味だと思う。
なんでも味噌糞一緒に言うのは正しくない。良いものは良いと認め、それだからこそ、誤りを指摘できるのだと思う。

夏の京都・円通寺と比叡山の借景

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大雨に苦労しながら、晩夏の京都へ出掛けた。
新幹線に閉じ込められたりと道中は散々だったが、祇園のいづうで鱧寿司を食うと来て良かったと思った。
八月の末ということもあり、祇園にも人は少なかった。河原町の天よしというてんぷら屋で海老とキスを食い、木屋町のバーで地元の客と話した。明日から東京に行くけど、どこか良いとこないかと訊いてくる。東京は怖いんじゃないかと、彼女は言った。
京都は平日の昼間も活気があるわけではない。地方都市独特のゆっくりした時間が流れている。毎日東京の喧騒の中で生活していると、多分少しずつズレが蓄積していく。
円通寺は北山の向こうにある、後水尾天皇の御所跡であり、延宝6年(1678年)、文英尼を開基として創建されたという。借景で有名であり、ちょうど比叡山が良く眺められる臨済宗の禅寺である。しかし近隣の開発が進み、借景の一部にマンションが建つのだという。
その問題について、腹がたつのは理解はできる。しかし拝観料を払い、ここまで足を運び、せっかくその素晴らしい借景の比叡山を眺めているのに、そこの坊主がくどくどテープで愚痴を聞かせる。これはどうかと思う。
借景が失われていくかどうかは、京都人の問題である。観光産業を主とし、文化保全に邁進し、仏教界も過去から努力しているなら、そういう問題は起きていないはずだ。高さ制限、景観の保全等がしっかり機能しているならば、京都の街中に乱立するビル、マンション群もなかっただろう。京都駅のような最新の建築を望みながら、一方で古都であるという矜持を保つのは無理である。
そういう裏舞台は自分たちで努力していくしかないだろう。外から来る人に、さもありがたい御題のように押しつけるのは止めて欲しいなと思う。外国の人も府外の人も、素晴らしいと思えば尊敬するし、再訪を望むだろう。
街の姿は、そこに住む人の心を反映する鏡に過ぎない。
 

初源的なアニメーションの力。『崖の上のポニョ』を観る。

飛べる人は飛べるけれど、そうでない人は海に飲み込まれる。
賛否両論が多く観るかどうか迷ったものの、『黒猫のタンゴ』以来の子供の素直な歌声に誘われ、ついに映画館に足を運んだ。宮崎駿氏の曰く、できる限り手で書くアニメーションであり、素直に動くことに対する魅力を表現したという。冒頭のオープニング、くらげの軍団とともに溢れていく海の豊穣な世界の描写を見、僕はディズニーの傑作である『ファンタジア』を想い出した。一枚一枚の絵が動いていくと、宇宙が出来ていく。
『ハウルの動く城』しかり、最近の宮崎駿の映画を観ると、重層的な物語をアニメーションの語りに置き換えていく試みに驚かされるものの、少しばかり「アニメーション」としては難解になっている気がした。少女の内的世界を外部化した試みは素晴らしいが、そこにはアニメーションを言語化し理解するというリテラシーが要求される。
『崖の上のポニョ』は、すべて見たままの世界である。見たままに見たことが現実化する。言語化し、自分の価値観と照らしあわすなんて不要だ。見たままを見たままに感じる力が求められる。子供が母親を名前で呼ぶから、そういう映画を見せたくないなどという馬鹿親の書き込みを見たけれど、そういう既成観念こそ不要である。
蓋し、初源的なアニメーションの力は、文字通り生命を吹き込む力である。豊穣な海は母の力に満ち、母はすべてを可能に出来る存在=生命の力である。魚は人間になり、老いた者も若返る。それがこの映画の本質であり、あとは見るだけだ。
そう、海=「産み」の世界なのだと、僕は席を立つとき気がついた。 <tokyotaros>

鴨川・波乗り・夏休み

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世間よりも少しばかり早い夏休みだった。
ちょうど仕事の台風の目のようにぽっかり空いたので、ひとり千葉・鴨川へ出掛けた。昼間に前原海岸で波に乗ったけれども、波がスネくらいしかなく、一時間半程度で諦めてコンドミニアムに向った。チェックインした後、缶ビールを開け、高層マンションのベランダから海を眺める。海風が心地良い。僕はビール二缶飲みながら、ハワイのFMラジオ局から流れる80年代ヒットソング、カジャグーグー、マイケルジャクソン、TOTO等の懐メロを聴いていた。
やがて夕方6時近くになったので、僕は歩いて横渚の街を散歩し、何処か美味しい魚でも食べさせる店がないかと歩いてみた。次第に日が落ちてきて、夕方から夜へと光が変わっていく。
しばらく歩いていると、鴨川駅の商店街も午後6時だというのにしんと静まって、時折通軽自動車の音が響くだけだった。平日の夜はこんなものなのだと、僕ははじめて知った。都心に暮らしている時間の感覚とは、まったく異なる時間が流れている。が、ここも同じ首都圏なのだ。D1000031_2
一時間ほど散歩をしたけれど、閉まったシャッターの他に眼にするものもなく、駅へと戻る。すると整然と留まっている列車の群れが、まるで子供の頃みたジオラマのように静かに、目前に広がっていた。近くには人の気配がない。何処か遠くへ来てしまったような気がした。昔の夏休みに迷い込んだような休日だった。
翌日腰くらいのセットが入り、僕のようなロングボード乗りには、丁度楽しめる波だった。tokyotaros

洞爺湖サミット・エコファシズムの台頭。

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欧州気候取引所が取り扱う排出権を元に、
排出権先物価格連動債券という金融商品が売り出されている。基本的には排出権は一般市場で個人が購入することは難しいと思われていたが、こういう商品が出来ることにより、個人マネーも巻き込み、将来的にエコは壮大な金融商品市場を形成しそうである。
原油高高騰、穀物の高騰等、マネーゲームと総称される、実体経済を乖離した膨大なキャッシュフローにより、人々の生活は混乱している。原油高で漁業に行けない船が、日本中の漁港に溢れている。旧左翼のイメージ思想に頭をやられている人たちは、弱者がマネーゲームの犠牲になっている叫ぶ。そして政府がスケープゴートのように吊り上げられる。しかし誰が糾弾されるべきなのだろうか。
確かに、排出権の導入は南北問題解決の糸口になるかもしれない。しかし冷戦が終わりイデオロギーでの縛りがなくなり、大きな物語から小さな物語へ移行する。ナショナリズムが高まり、結果がテロとの戦いだった。物語を喪失していた世界が、次の壮大な物語を探し、それがエコロジーとなった。それは、ドイツの緑の党が、第三の道として70年代から提唱していた、多文化主義、エコロジー、脱物質主義等の延長である。
ヨゼフ・ボイス氏は、「社会彫刻」を目指し、緑の党の主要な人物だった。蜂蜜、鉄、フェルト等の物質に対する詩的な感性は、特筆すべきものである。そういうナチュラルな物質に対する、純粋な感性でありながらも、その神秘性のなかに人を織り込んでしまう怖さがある。
蓋し、エコロジーはある種のファシズムである。自由な選択を恐れ、自由から逃走しようとする人々の惑いがある。かつては国家単位だったものを、グローバルに展開したファシズムである。
資本家あるいは先進国も、労働者あるいは発展途上国も、みながその中に救いを探している。そこにさまざまな思惑が、メルティング・ポットのように渦巻いている。人々は自由を差し出し、何を手に入れようとしているのだろうか。権力、金、あるいは正しいことをしているという幻想。
二十一世紀の最大の詭弁が、この後どういう道を辿るのか。しっかり見ていかなければならない。

グリーンピースの偽善。環境活動家の底知れぬ病。

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洞爺湖のサミットが来るということで、環境テロ(犯罪)があったそうだ。
佐藤潤一というグリーンピースの海洋生態系問題担当部長が逮捕された。鯨の肉の横領を示す証拠を盗みに、西濃運輸の倉庫に忍び込んだのだという。無論、彼は正義からの行動であって、自分が悪いとは思っていない。
僕も海の素晴らしさを知っているつもりだし、同時に自然の怖さも知っている。別に彼が海を愛し、自然を愛すことに異論はない。僕は鯨を美味しいと食べるが、彼が食べなくても構わない。
そもそも自然自体は、人間が死滅すればさっさと別の形で再生するのであって(そもそも自然は破壊できない)、何をもって人間が自然を支配したり、破壊したりと言っているのだろうか。自然を支配したことなど、一時もなかったし、未来永劫あり得ない。先ず僕が環境テロを起すような団体に思うことは、その行動理念こそが人間の驕りの極点だということだ。自然を疎外してはじめて、人間が社会を作りあげていることを忘却している阿呆だろう。
民主主義国家を人間生活の基盤としている以上、そもそも鯨が貴重か貴重でないかについて、どうのこうの言う議論はあってもいいだろう。しかし犯罪行為を持ちこみ、自分の考えをアピールするに至っては論外だ。
現在の世界の病であるエコロジーのコンテクストには、善意を偽装した悪意が蔓延している。イデオロギーを失った社会が次の大きな物語を求め、皆が新しい物語のヒーローになりたがる。そういう環境ナルシストの悪行でしかない。自然環境を守るということは、自分たちの生活環境を守る=人間が意図しない状況に生活環境を悪化させている状況を改善することでしかない。そんなことは佐藤氏も分かっているだろう。
それならば法を遵守し、民意を得てこそ、初めて理念を実行できるのではないだろうか。

台頭するハイブリッド。アメ車の終焉?

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ガソリン価格の上昇を背景に「やがては…」と思っていたが、こんなに早く来るとは予想外だった。最大の自動車市場、米国の5月新車販売で日本車のシェアが42%と初めて4割を突破したのだ。GM(ゼネラル・モーターズ)など米ビッグ3との合計差は2ポイントまで接近した。ユーザーの燃費性能志向は今後も衰えそうになく、近々に月次シェアの「逆転」が現実味を帯びてきた。 2008年6月11日(水)09:00 NBonline
R16号、基地、福生、横須賀等、アメリカを巡る記号の終焉。
典型的な『アメ車文化』にノスタルジックな憧憬を抱いている日本人のオヤジたちにとって、驚くべき話だ。50年代の物質文明を謳歌したアメ車=石油文明の象徴は、恐竜と同じ道を辿りそうである。
早晩ハマーを駆るIT社長または青年実業家?のような存在は、嘲笑の対象になり、やはり所ジョージさんは困ってしまうのだろう。「自動車」はますます、干乾びた魅力のない存在になり、ジジイのようなものになっていく。十年後の2018年には、電気自動車が白物家電のように走り、街には再び路面電車が復権するのだろう。それでもガソリン車を汽車の愛好家のように愛でる人は残るだろうが…。多分1リッター500円以上のガソリンで。
バブルで頭にヘリウム詰まっている僕のような世代には、少し奇異な世界に思う。でも十代のユーチューブ世代にとっては、別にどうでもいいことなのだろう。
やがて自動車は、蒸気機関車のように、映画の中にある歴史の「記号」になっていくのだ。

犯罪をめぐる神経症的な糾弾を憂う。

性犯罪、子供をめぐる犯罪に関する神経症的な批判が多くなっているように思う。
性犯罪者は去勢しろとか、死刑にしろとか、まるで検察が容疑者を起訴する前に、断罪するネット社会の現状。まるで日本が昔の牧歌的な状況から変質したかのような誤解が駆け巡り、国家権力をむやみに信用する人々を増やしていく。毎日犯罪の記事が告知されると、ネットには厳罰化を求める声(状況が分からず、しかも微罪であっても)が増えてやまない。
裁判員制度が開始される前に、このように犯罪者を無闇にスケープゴートとし、同時に管理社会を犯罪者でない人まで窮屈にさせる社会でいいのか考え直すべきであると思う。
ネット上で統計を探してみると、子どもの犯罪被害データーベース という興味深いサイトがある。発生件数を比べてみても、殺人は1960年と比較し、80%減少し、また性犯罪は、90%減少している。最近のTVの感情を煽るスキャンダラスな報道が、まるで治安が悪化し、人の心が荒んでいるというイメージを増幅しているかが分かると思う。
私は犯罪は憎むべきだし、重罰も必要だとは思う。しかし、すべてに関して監視を厳しくし、しかもポルノの所有まで断罪し、表現と思想の自由まで奪っていく傾向自体が、病んでいることを分かるべきだと思う。
子供たちは危険だから外で遊べないのだろうか。知らない人と挨拶すると危ないのだろうか。『三丁目の夕日』の昭和三十年代は、人間がみな暖かかったなどというのは大嘘である。当時の小説を読んでみれば分かる。人間が闇を抱えて生きている現状に変りない。
今問題なのは、闇を理解しようと出来ない心の未成熟なのではないだろうか。人を孤立させていく、窮屈な世の中ではなく、自由な世の中にしていくべきである。何故異常な事件があると、すべてを封鎖するのだろう。学校、家庭、地域社会。心の鎖国をこそ、自殺者を増やし、GDH(国民幸福指数)の低い社会を生み出しているのではないだろうか。

Wadia170 iTransportに惑う。

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デジタル・オーディオに心が惑う。
普段のアウトドアではi-podを愛用している私であるけれど、自宅のオーディオセットに繋ぐと(ヘッドフォン出力から)満足するレベルではないなと判断していた。が、Wadia社から6月に発売されるWadia170は、デジタル信号で直接i-podからの音源を出力できる装置である。デジタル/アナログの両方でオーディオ出力可能であるが、本来のパフォーマンスはデジタル入力で発揮される。大変興味をそそる製品だ。
大量にあるLPとCDの保管状況を考えると、完全デジタル化してしまったなら、自宅のインテリアがすっきり片づくに違いない。理屈は分かっても、アナログ装置を捨てられない人もいるだろう。僕もいままでは、ハイレベルなオーディオに適している装置がないなどと意味なく誹謗し、内心言い訳をしていた。が、(勿論スタジオの現場では完全にデジタルなことは承知しているが…)ここまで安価な価格<税抜き59800円>で高級デジタルオーディオメーカーのWadiaが装置を発売され、この日がとうとう来たかという気がする。大げさに言えば、子供の頃から親しんだパッケージ・音楽文化の終焉である。2008年現在、世界最大音楽セールスショップがi-Tuneだというのだから仕方ない。
ジッターからも解放された高品質の音というものを、早く味わってみたいと思う。やがて所有する大量のCD/パッケージメディアたちはデジタル・データとなってしまう日が遠くないかもしれない。それでもささやかな抵抗として、昔コレクションしたLPレコードたちは残したいけれど。
<tokyotaro>