
欧州気候取引所が取り扱う排出権を元に、
排出権先物価格連動債券という金融商品が売り出されている。基本的には排出権は一般市場で個人が購入することは難しいと思われていたが、こういう商品が出来ることにより、個人マネーも巻き込み、将来的にエコは壮大な金融商品市場を形成しそうである。
原油高高騰、穀物の高騰等、マネーゲームと総称される、実体経済を乖離した膨大なキャッシュフローにより、人々の生活は混乱している。原油高で漁業に行けない船が、日本中の漁港に溢れている。旧左翼のイメージ思想に頭をやられている人たちは、弱者がマネーゲームの犠牲になっている叫ぶ。そして政府がスケープゴートのように吊り上げられる。しかし誰が糾弾されるべきなのだろうか。
確かに、排出権の導入は南北問題解決の糸口になるかもしれない。しかし冷戦が終わりイデオロギーでの縛りがなくなり、大きな物語から小さな物語へ移行する。ナショナリズムが高まり、結果がテロとの戦いだった。物語を喪失していた世界が、次の壮大な物語を探し、それがエコロジーとなった。それは、ドイツの緑の党が、第三の道として70年代から提唱していた、多文化主義、エコロジー、脱物質主義等の延長である。
ヨゼフ・ボイス氏は、「社会彫刻」を目指し、緑の党の主要な人物だった。蜂蜜、鉄、フェルト等の物質に対する詩的な感性は、特筆すべきものである。そういうナチュラルな物質に対する、純粋な感性でありながらも、その神秘性のなかに人を織り込んでしまう怖さがある。
蓋し、エコロジーはある種のファシズムである。自由な選択を恐れ、自由から逃走しようとする人々の惑いがある。かつては国家単位だったものを、グローバルに展開したファシズムである。
資本家あるいは先進国も、労働者あるいは発展途上国も、みながその中に救いを探している。そこにさまざまな思惑が、メルティング・ポットのように渦巻いている。人々は自由を差し出し、何を手に入れようとしているのだろうか。権力、金、あるいは正しいことをしているという幻想。
二十一世紀の最大の詭弁が、この後どういう道を辿るのか。しっかり見ていかなければならない。
グリーンピースの偽善。環境活動家の底知れぬ病。

洞爺湖のサミットが来るということで、環境テロ(犯罪)があったそうだ。
佐藤潤一というグリーンピースの海洋生態系問題担当部長が逮捕された。鯨の肉の横領を示す証拠を盗みに、西濃運輸の倉庫に忍び込んだのだという。無論、彼は正義からの行動であって、自分が悪いとは思っていない。
僕も海の素晴らしさを知っているつもりだし、同時に自然の怖さも知っている。別に彼が海を愛し、自然を愛すことに異論はない。僕は鯨を美味しいと食べるが、彼が食べなくても構わない。
そもそも自然自体は、人間が死滅すればさっさと別の形で再生するのであって(そもそも自然は破壊できない)、何をもって人間が自然を支配したり、破壊したりと言っているのだろうか。自然を支配したことなど、一時もなかったし、未来永劫あり得ない。先ず僕が環境テロを起すような団体に思うことは、その行動理念こそが人間の驕りの極点だということだ。自然を疎外してはじめて、人間が社会を作りあげていることを忘却している阿呆だろう。
民主主義国家を人間生活の基盤としている以上、そもそも鯨が貴重か貴重でないかについて、どうのこうの言う議論はあってもいいだろう。しかし犯罪行為を持ちこみ、自分の考えをアピールするに至っては論外だ。
現在の世界の病であるエコロジーのコンテクストには、善意を偽装した悪意が蔓延している。イデオロギーを失った社会が次の大きな物語を求め、皆が新しい物語のヒーローになりたがる。そういう環境ナルシストの悪行でしかない。自然環境を守るということは、自分たちの生活環境を守る=人間が意図しない状況に生活環境を悪化させている状況を改善することでしかない。そんなことは佐藤氏も分かっているだろう。
それならば法を遵守し、民意を得てこそ、初めて理念を実行できるのではないだろうか。
台頭するハイブリッド。アメ車の終焉?

ガソリン価格の上昇を背景に「やがては…」と思っていたが、こんなに早く来るとは予想外だった。最大の自動車市場、米国の5月新車販売で日本車のシェアが42%と初めて4割を突破したのだ。GM(ゼネラル・モーターズ)など米ビッグ3との合計差は2ポイントまで接近した。ユーザーの燃費性能志向は今後も衰えそうになく、近々に月次シェアの「逆転」が現実味を帯びてきた。 2008年6月11日(水)09:00 NBonline
R16号、基地、福生、横須賀等、アメリカを巡る記号の終焉。
典型的な『アメ車文化』にノスタルジックな憧憬を抱いている日本人のオヤジたちにとって、驚くべき話だ。50年代の物質文明を謳歌したアメ車=石油文明の象徴は、恐竜と同じ道を辿りそうである。
早晩ハマーを駆るIT社長または青年実業家?のような存在は、嘲笑の対象になり、やはり所ジョージさんは困ってしまうのだろう。「自動車」はますます、干乾びた魅力のない存在になり、ジジイのようなものになっていく。十年後の2018年には、電気自動車が白物家電のように走り、街には再び路面電車が復権するのだろう。それでもガソリン車を汽車の愛好家のように愛でる人は残るだろうが…。多分1リッター500円以上のガソリンで。
バブルで頭にヘリウム詰まっている僕のような世代には、少し奇異な世界に思う。でも十代のユーチューブ世代にとっては、別にどうでもいいことなのだろう。
やがて自動車は、蒸気機関車のように、映画の中にある歴史の「記号」になっていくのだ。
犯罪をめぐる神経症的な糾弾を憂う。
性犯罪、子供をめぐる犯罪に関する神経症的な批判が多くなっているように思う。
性犯罪者は去勢しろとか、死刑にしろとか、まるで検察が容疑者を起訴する前に、断罪するネット社会の現状。まるで日本が昔の牧歌的な状況から変質したかのような誤解が駆け巡り、国家権力をむやみに信用する人々を増やしていく。毎日犯罪の記事が告知されると、ネットには厳罰化を求める声(状況が分からず、しかも微罪であっても)が増えてやまない。
裁判員制度が開始される前に、このように犯罪者を無闇にスケープゴートとし、同時に管理社会を犯罪者でない人まで窮屈にさせる社会でいいのか考え直すべきであると思う。
ネット上で統計を探してみると、子どもの犯罪被害データーベース という興味深いサイトがある。発生件数を比べてみても、殺人は1960年と比較し、80%減少し、また性犯罪は、90%減少している。最近のTVの感情を煽るスキャンダラスな報道が、まるで治安が悪化し、人の心が荒んでいるというイメージを増幅しているかが分かると思う。
私は犯罪は憎むべきだし、重罰も必要だとは思う。しかし、すべてに関して監視を厳しくし、しかもポルノの所有まで断罪し、表現と思想の自由まで奪っていく傾向自体が、病んでいることを分かるべきだと思う。
子供たちは危険だから外で遊べないのだろうか。知らない人と挨拶すると危ないのだろうか。『三丁目の夕日』の昭和三十年代は、人間がみな暖かかったなどというのは大嘘である。当時の小説を読んでみれば分かる。人間が闇を抱えて生きている現状に変りない。
今問題なのは、闇を理解しようと出来ない心の未成熟なのではないだろうか。人を孤立させていく、窮屈な世の中ではなく、自由な世の中にしていくべきである。何故異常な事件があると、すべてを封鎖するのだろう。学校、家庭、地域社会。心の鎖国をこそ、自殺者を増やし、GDH(国民幸福指数)の低い社会を生み出しているのではないだろうか。
Wadia170 iTransportに惑う。

デジタル・オーディオに心が惑う。
普段のアウトドアではi-podを愛用している私であるけれど、自宅のオーディオセットに繋ぐと(ヘッドフォン出力から)満足するレベルではないなと判断していた。が、Wadia社から6月に発売されるWadia170は、デジタル信号で直接i-podからの音源を出力できる装置である。デジタル/アナログの両方でオーディオ出力可能であるが、本来のパフォーマンスはデジタル入力で発揮される。大変興味をそそる製品だ。
大量にあるLPとCDの保管状況を考えると、完全デジタル化してしまったなら、自宅のインテリアがすっきり片づくに違いない。理屈は分かっても、アナログ装置を捨てられない人もいるだろう。僕もいままでは、ハイレベルなオーディオに適している装置がないなどと意味なく誹謗し、内心言い訳をしていた。が、(勿論スタジオの現場では完全にデジタルなことは承知しているが…)ここまで安価な価格<税抜き59800円>で高級デジタルオーディオメーカーのWadiaが装置を発売され、この日がとうとう来たかという気がする。大げさに言えば、子供の頃から親しんだパッケージ・音楽文化の終焉である。2008年現在、世界最大音楽セールスショップがi-Tuneだというのだから仕方ない。
ジッターからも解放された高品質の音というものを、早く味わってみたいと思う。やがて所有する大量のCD/パッケージメディアたちはデジタル・データとなってしまう日が遠くないかもしれない。それでもささやかな抵抗として、昔コレクションしたLPレコードたちは残したいけれど。
<tokyotaro>
火星へ人が住む日が来るのだろうか。

バイキングが火星探索をした映像を見、驚愕したのは小学生の頃だった。三十年後の現在、宇宙開発は米ソの面子の競争から、経済的な実質を追求する時代へと変化しつつある。
今回米は探査衛星・フェニックスを火星に派遣した。今回の調査して水資源が確認されたなら人の長期滞在が可能になるだろう。火星には、蓋し様々なレアメタルを含む鉱石等、地球には少ない天然資源が埋蔵されている。僕が生きている間に火星へ移住することはないだろうが、次の世代には火星に実験的なコロニーが出来るかもしれない。ようやく開発を進めていく技術と経済的な意義が、確実に生まれつつある。
遠い星からやって来る電波にノスタルジックな響きを感じる世代ではなく、宇宙にリアリティを感じる世代へと世界は変わっていくのだろう。
ロータスエラン/12年来の愛車を手放すこと。

1996年に買ったロータスエランSEを手放すことにした。
理由はそれなりにあるのだけど、そろそろ十分な手をかけてくれる人に譲った方が良いかと考えたからだった。いままで所有した自動車は、フォルクスワーゲン、ホンダCRX、ロータスエランSE、アウディ80アバント、現在はアウディのオールロード。エラン以外はすべてファーストカーである。
セカンドカーというのは、金銭的には大変であるし、経済的な合理性などまったくない存在である。そういう意味で長年の愛人のようなものだった。ファーストカーと同じように、車検があり、自動車税を払い、また修理費を払う。普通セカンドカーのエランが壊れやすく、扱いずらそうなものだけど、一番壊れたのは同時期のファーストカーのアウディ80アバントだった。時折、トラブルに見舞われはしたけれど、深刻なトラブルはこの12年なかった。(ちなみにアウディはエンジンが壊れ、ほぼ部品換装したが完全に治らず、僅かな金で売却した。)
経済的な合理性はなかったが、自動車性能の価値は高かった。イリーガルな速度で高速道路を(しかもオープンで)激走中にふらっと目の前に自動車が割り込まれた時、ステアリングを切って横にすり抜け助かったことがある。コーリンチャップマンのバックボーン・シャーシから来る俊敏な運動性能のおかげだと痛感した。そういういざという時の、俊敏な対応力は抜群であったし、それまでには知らなかったスーパーカーの世界を垣間見せてくれた。当時は革新的なFFスポーツカーであり、偉大なコーナリングマシーンだった。鈍重なMGB・V8、MGFと比較検討して買ったので、殊更満足したのを覚えている。

箱根、伊豆、京都、那須等に遠乗りをし、ツインリンクもてぎのロータスミーティングに出掛けたり、カーマガジンの取材に参加したりと(編集者の知り合いのルートが転々とし、嫌になって集合写真撮影後に逃走したのだが…)いろいろ活躍した。バッテリー、ウインドー等の、マイナートラブルもそれなりにあった。でも事故も致命的な故障もかなく、良い状態でいままで維持できたと思う。
ロータスエラン・M100には愛好会のサイトもあって、ユーザは生産終了から10年以上経った自動車とともに頑張っている。こういう素晴らしいオーナーの手に渡り、多少はレストアしてもらって往年の良さを取り戻し、大切にしてもらってほしいと願っている。
安部元首相を再評価する。
戦略的互恵関係の構築に向け。相互訪問を途絶えさせない関係をつくっていくことが重要だ。国が違えば利益がぶつかることがあるが、お互いの安定的関係が両国に利益をもたらすのが戦略的互恵関係だ。問題があるからこそ、首脳が会わなければならない。
私が小学生のころに日本で東京五輪があった。そのときの高揚感、世界に認められたという達成感は日本に対する誇りにつながった。中国も今、そういうムードにあるのだろう。その中で、チベットの人権問題について憂慮している。ダライ・ラマ側との対話再開は評価するが、同時に、五輪開催によってチベットの人権状況がよくなったという結果を生み出さなければならない。そうなることを強く望んでいる。
これはチベットではなくウイグルの件だが、日本の東大に留学していたトフティ・テュニヤズさんが、研究のため中国に一時帰国した際に逮捕され、11年が経過している。彼の奥さん、家族は日本にいる。無事釈放され、日本に帰ってくることを希望する。
(胡氏との会食にて述べる)
安部元首相は偉いと思う。信念を貫かないことに得を見出す、老獪な政治家に一矢を報いている。しかし勿論、政治は正論だけではない。が、安部氏の態度を無闇に批判した朝日のような欺瞞に満ちた新聞は思い知るべきだ。偽善に満ち満ちた高慢な態度が日本を疲弊させている一因であることを。
春の海原。葉山→初島

葉山マリーナを出発したのは10時半だった。
昨晩の雨天から曇り空となり、肌寒い海原へとボートで出航した。
33フィートのクルーザー。相模湾に面する葉山から、伊豆初島までは一時間半程度の航海だ。友人たちと集い、十名ほどで一路向かった。近海であるのだが、初島までの航海では出会う船は少ない。ちょうど五海里程度の沖合いを進むため、ヨットや小型船舶が沿岸で楽しむ航路をずれているからだという。
360度に拡がる海原と水平線を眺めていると、普段の生活をまったく離れてしまう。至極気持ちが良い。
潮風を浴び、若干具合も悪くなる者もあったけれど、無事島に到着できた。

初島に来ると、まるで遠い小島に来たかのようだ。とても都内から二時間程度でやって来た場所ではない。岸壁に干された網のカラーが眩しく、その収穫物である初島の豊かな海産物を堪能した。あわび、イカ、伊勢海老。新鮮過ぎるくらい新鮮である。実に素晴らしい食材だった。
青山次郎氏はひと夏のヨット生活とぐい飲みを交換したと随筆に書いているけれど、確かに交換する価値のある程、海は喜びがあるなと思う。ヨットで来ると、同じ航路が8時間かかるそうだ。普段のサーフィンに似た自然の力には憧憬があるけれど、まあ僕は船旅には強くないらしい。
僕は昔ヨット部に在籍して一年を海で過ごしたことがある。しかしある台風の時沖の波に呑まれて以来、海が怖くなって部を辞めてしまいヨットには乗らなくなった。その後、高校時代の友人がヨットレースで他界したりと、確かに海の恐ろしい側面も良く理解している。やがてサーフィンをするようになって再び海に戻り、沿岸では大丈夫だけど、やはり陸地が見えないと少し不安になるらしい。
翌日僕は筋肉痛になっていた。多分、体中に力を入れていたのかもと、自分を笑った。友人たちはまったく大丈夫だったらしく、至極楽しかったと笑っていた。
現在は過去の文化の複製を生み出し、そこに文化を感じていることで危うげに結びついている。

現在は過去の文化の複製を生み出し、そこに文化を感じていることで危うげに結びついている。多様であった文化は、「共通言語」として一元化されていく方向を進んでいる。世界は一元化した「共通言語」で人の魂を救済できるのであろうか。
メディアの技術は「共通言語」を生み出し、世界の知識を一元化しつつある。しかし共通言語は幸せをもたらすのかどうかは分からない。「共通言語」の間で魂は凍りつくかもしれないし、結びつくはずの糸が解けていくきっかけになるのかもしれない。それでも技術は世界を結びつけ、人の魂を浚っていく。蟹の群れを底引き網が根こそぎ浚っていってしまうように。それでも人の魂は、海底に潜む蟹のようにしか生きていけない。
紙はかつて人々の魂に大胆な変化をもたらした。それまでの人は紙によって、別の空間、時間からやって来る他の人の言葉を知らなかった。言葉は人の口から出で、人の耳に入るものでしかなかった。息、体温、その場の空気というノイズとともに、言葉は語られるだけであり、同時の空間の中で紡ぎだされるものでしかなかった。物語も知識も、人の口から膨大な周辺の情報と共に伝えられ、それを人は理解し、その周辺情報の残滓から文化が育成された。神話、方言、さまざまな所作は、そういうノイズを包含しながら真髄であるところの意味を醸成して来たのである。
無駄がなくては文化が出来ないと言う真意は、つまりはそういうところにある。酒が菌による醗酵によって生み出されるように、文化は不純物によって醗酵出来る。つまり、余りにも有機的なものなのである。だからこそ、文化は宿木であるところの、人を決して出ることができない。宿木が失われればその文化は死んでしまう。
周囲に存在する人は、文化の伝承者として尊敬され、社会的な位置づけを帯びていた。勿論すべてが優秀な伝承者であったわけではない。副産物として迷信が生まれ、無知蒙昧な人々となっていたことも否めない。十八世紀以降の「文化人」たちは、啓蒙(エンライトメント=光を当てるという英語の方が分かりやすい)と称して市民社会を生み出そうとした昔の人々は、そういう不純物に目をつけて浚っていった。次第に宿木は倒され、無知の蔑称と共に排斥されて来たのが、つまり近代である。マルクスが自然から疎外された存在としての人間を発見できたのも、まさにそういう現実が顕在化しつつあるのを目の当たりにしたからだろう。
グーテンベルグの印刷機の発明も、紙の大量生産も、文化の神話性を貶める役割を帯び、やがて写真、映画、音響装置の発明が拍車をかけてきた。テレビとインターネットがあまねく普及した(つまりユビキタスある)現代の市民社会はそういう文化の磨耗のある極点となっている。これは地球温暖化よりも深刻な問題であり、人の生きる意味に関わる問題である。(日本の自殺者の急増も、蓋し文化の崩壊と深刻な関わりがある。)
勿論現在も、企業文化等、「文化」という言葉は周囲に満ちている。しかしその「文化」という言葉は文化のメタファーでしかない。「共通言語」は、政治的な思惑とシンクロナイズし、つまりデファクト化した知性として、最後の砦である言語の障壁をクリアしようと目論んでいる。これも技術の進歩で早晩実現するかもしれない。
そこには不純物は存在しない。純粋な水で生物が死に絶えるようにすべての魂は死に絶えるだろう。その先に残るものは、ゾンビとなった人に過ぎないのではないか。ゾンビにも欲望はあるのだろうか。そこは平準化した死=最大化されたエントロピーが満ち満ちた静かな地獄であるにちがいない。
ネットワークを完璧に破壊するウィルス以外に「魂」を救える救済者はいない。キリストは再度降臨するだろうか。
アポフィス (99942 Apophis) は、アテン群に属する地球近傍小惑星の一つ。2004年6月に発見された。地球軌道のすぐ外側から金星軌道付近までの楕円軌道を323日かけて公転している。
アポフィスという名は古代エジプトの悪神アペプ(ギリシア語でアポピス、ラテン語でアポフィス)に由来する。
2004年12月、まだ2004 MN4という仮符号で呼ばれていたこの小惑星が2029年に地球と衝突するかもしれないと報道され、一時話題になった。その後、少なくとも2029年の接近では衝突しないことが判明している。

