
千葉の一宮から東浪見に向かう途中にサンライズというポイントがある。朝に海辺に出ると、海から朝日が昇ってくる。サーフィンをする人には知られているが、普通は波乗り通りから御宿に向かう途上で通り過ぎてしまう場所のひとつに過ぎない。近くには和食屋とサーフショップがあるだけで、めぼしいものは特にない。
2008年の8月以降、僕の週末のほとんどをこの場所で過ごしている。東京の港区を出ると、ちょうど一時間半の道のり、約100km程度のドライブになる。辺鄙なところなので、友達が来ることもない。夜中に自動車を走らせると、暗闇には無数の虫の大群と、時折現れる狸などの小動物の姿しかない。冬は澄み渡った空に星が満ちている。わざわざ家賃を払って週末を過ごすとところだろうか分からない。東京から波情報を見て、その日の気分でさまざまなポイントを探して東奔西走することもなくなった。その代わり、少しだけぽっかり空いた時間が残る。

屋上から海を向かって眺める。夏は一日だけ素晴らしい花火を観ることもできる。朝サーフィンをした後、海風を受けながら、屋上でビールを飲む。晴天。からだから余分な力が抜けていくのを感じる。東京近郊の経済の発展はこういう空虚な場所を埋めていってしまった。昔の湘南にも、こういうぽっかりぬけた感じがあって良かったなと、僕は祖母とピクニックをした頃の、湘南の松林や茅ヶ崎の海岸を想う。
日本企業の技術力。求められる発想の転換。
米研究機関、合計16台のPS3でスーパーコンピューターを構築したという『研究グループは合計16台のPS3を安価なギガビットハブを使って接続。その上でこれらのPS3にOpen MPIをインストールすることで、HPCクラスタを構築することに成功したそうだ。(中略)16台のPS3クラスタのパフォーマンスは40GFLOPSにも』ということである。なによりも素晴らしいのは、安価でスーパーコンピューターを構築できることにある。一台4万円としても、ブラックホールの解析に利用できる機能が、僅か64万円にしかならない。
このような発想ができるのが、アメリカの知力の凄みである。日本だと、予算に応じて官僚的な思考で用意していくのが常だからだ。日本全般、『予算をいかに獲得し、消化していくか』という官僚的思考から脱却する勇気があるならば、不況のさなかではあるけれど、日本の力は十分に発揮できる。
地方自治体も企業も学校も、すべての日本人が早晩に官僚的な組織機構を真似る方向から脱却し、組織のストレッチングをしていくべきだろう。規制や保護という官僚主義の強化を図るなら、まるで拘束衣を着させられるようなもので、健康な肉体も次第に病んでいってしまうに違いない。
来年こそより自由に、柔軟に。<tokyotaros>

ニートという人々と日本社会の今後
このたびニートの職業訓練を法制化するという話がある。
2ちゃんねる等を見ていると、さっそくこの新法に関するコメントが多数投稿され、端的にニートと称する人々の意見を集約してみるならば、『仕事があるなら失業者に与えてあげるべきであり、自分たちは食べていられるのだからほっておいてほしい』という話である。もちろんニートの人々は、多分親のスネをかじったり、または遺産等十分にある人々なのだろう。
ちょうど加藤周一氏の1960−70年代の評論を読んでいるのだけれども、その当時の左翼の若者、またはヒッピーのような若者たちは、中流階級の典型的な生活に失望したのだと書いている。中国が転向し、ソビエトが崩壊した現在から眺めてみると、このアメリカ型資本主義が謳歌している実情からは、ファンタジーに聴こえる。(現在はリセッションとなっているが)彼らが失望した中流階級的な生活とは何であろう。蓋し、給与生活者、または中小企業を商い、テレビ、洗濯機、冷蔵庫等の家電が配備された家に居住し、スーパーマーケットで生活物資を購入し、消費する生活である。現在、中国、ロシアであっても、その生活を否定する者などいない。それを当時はプチブル的な態度と批判した。つまりは資本家でもないのに、資本家に同調していると。
リセッションに突入し、アメリカ経済も危ういと、世間は蜂が暴れ回るように騒いでいる。日本は対岸の火事だと思っていた人も多かったので、尚更焦っている。そして官僚や左翼崩れの人たちが、その期に乗じて金をかっさらおうと算段している。今朝もTVでは高橋是清の言葉を引用し、民主党も自民党の政治家も、巨大利権の復権=大きな政府を担ぎだそうと語っていた。アメリカのGDPは今後落ちると行っても、世界の第二位である日本の2倍は割らない。安保反対の癖にアメリカで稼ぎ、アメリカが没落するとなると既得権益の確保に走る。かつて在野に散った左翼の残党(役人、代議士)は国の根幹を考えず、自らの正当化に走る。郵政省を復活しようという、弱者の庇護を隠れ蓑にした下郎も絶えない。
若者に自分の生き方の正しさを背負わせたり、心配している振りをして弱者を食い物にしたりするべきではない。人生に失敗すれば路頭に迷い、成功すればそのまま安泰である。別に誰も助けることはなく、日本が右肩上がりに成長していく必要もない。
幸福はGDPの成長と比例しない。つまり金とは比例しない。もし生きていくことができない人がいるならば、助けるのはリアルな人であり、殺すのもリアルな人である。どうしてシステムが救う必要があるのだろう。彼らは助けなど求めていないし、税金をかけて助ける必要もない。彼らは十分にブルジョアであり、死のうと死ぬまいとそれも本人の問題だ。残念ながら人生の宿命は、自らが負うしかない。誰もニートであれと強いてはいない。
なぜ助ける振りをして権益を生み出すのか、そして人から金(税)を奪うのか。民主主義と自由主義の原則に立ち戻り、小さな政府への道はやめるべきではない。
政府主導の職業訓練は、希望するニートに制度として設けるオプションは可能だろうが、現在の案のように、政府が人を派遣して実情を把握し、促して社会参加させるというのは現実的に無理だろう。効率を考え、国家主導で矯正する案だとしたら、徴兵制また準ずる国家労働奉仕が妥当だと傾く他はない。
冬の東京タワーを眺める。『50』のライトアップ。

六本木ヒルズのけやき坂に架かる橋から眺めると、東京タワーがちょうど遠望できる。今年は50周年らしく、様々なライトアップとともに、50の数字が窓に示されている。
2011年の地上波デジタルとともに、東京タワーはテレビ塔としての主役の座を降り、台東区にできる新タワーに役目を譲るそうだ。しかしケータイの発信塔としての機能等はそのまま残るので、取り壊されてしまうわけではない。
名古屋にも、札幌にもテレビ塔はあって、そこも観光地となっている。1958年当時、20歳だった若者も、もはや古希(70歳)となり、インターネットでNHKもVODを実施した2008年、TVの時代は翳りを迎えている。1950年代の黄金期だった映画界(東宝、東映、日活等)と同じく、権勢をほこるテレビ業界も歴史になっていくのだろう。
僕は学生の頃(1990年頃)、東京タワーの特別ラジオ番組をつくる仕事に関わったことがある。放送作家の下請けの下請けみたいな仕事だったけど、『東京タワー』みたいなモノを売り込むっていう仕事があるのだとはじめて知ったのは収穫だった。
もちろん今も広告代理店とかが、東京タワーを売り込んでいるし、そのおかげで無償で綺麗なタワーの姿を眺めることができるのは、東京都民と観光客にとってはあり難いことだ。皆に愛されている限り、100周年を迎えるかもしれない。
そのうちかっては「テレビ」という電波を流していた塔なんだよと、今の若者が孫に語る時代が来るのだろうか。
夏の京都・円通寺と比叡山の借景

大雨に苦労しながら、晩夏の京都へ出掛けた。
新幹線に閉じ込められたりと道中は散々だったが、祇園のいづうで鱧寿司を食うと来て良かったと思った。
八月の末ということもあり、祇園にも人は少なかった。河原町の天よしというてんぷら屋で海老とキスを食い、木屋町のバーで地元の客と話した。明日から東京に行くけど、どこか良いとこないかと訊いてくる。東京は怖いんじゃないかと、彼女は言った。
京都は平日の昼間も活気があるわけではない。地方都市独特のゆっくりした時間が流れている。毎日東京の喧騒の中で生活していると、多分少しずつズレが蓄積していく。
円通寺は北山の向こうにある、後水尾天皇の御所跡であり、延宝6年(1678年)、文英尼を開基として創建されたという。借景で有名であり、ちょうど比叡山が良く眺められる臨済宗の禅寺である。しかし近隣の開発が進み、借景の一部にマンションが建つのだという。
その問題について、腹がたつのは理解はできる。しかし拝観料を払い、ここまで足を運び、せっかくその素晴らしい借景の比叡山を眺めているのに、そこの坊主がくどくどテープで愚痴を聞かせる。これはどうかと思う。
借景が失われていくかどうかは、京都人の問題である。観光産業を主とし、文化保全に邁進し、仏教界も過去から努力しているなら、そういう問題は起きていないはずだ。高さ制限、景観の保全等がしっかり機能しているならば、京都の街中に乱立するビル、マンション群もなかっただろう。京都駅のような最新の建築を望みながら、一方で古都であるという矜持を保つのは無理である。
そういう裏舞台は自分たちで努力していくしかないだろう。外から来る人に、さもありがたい御題のように押しつけるのは止めて欲しいなと思う。外国の人も府外の人も、素晴らしいと思えば尊敬するし、再訪を望むだろう。
街の姿は、そこに住む人の心を反映する鏡に過ぎない。
台頭するハイブリッド。アメ車の終焉?

ガソリン価格の上昇を背景に「やがては…」と思っていたが、こんなに早く来るとは予想外だった。最大の自動車市場、米国の5月新車販売で日本車のシェアが42%と初めて4割を突破したのだ。GM(ゼネラル・モーターズ)など米ビッグ3との合計差は2ポイントまで接近した。ユーザーの燃費性能志向は今後も衰えそうになく、近々に月次シェアの「逆転」が現実味を帯びてきた。 2008年6月11日(水)09:00 NBonline
R16号、基地、福生、横須賀等、アメリカを巡る記号の終焉。
典型的な『アメ車文化』にノスタルジックな憧憬を抱いている日本人のオヤジたちにとって、驚くべき話だ。50年代の物質文明を謳歌したアメ車=石油文明の象徴は、恐竜と同じ道を辿りそうである。
早晩ハマーを駆るIT社長または青年実業家?のような存在は、嘲笑の対象になり、やはり所ジョージさんは困ってしまうのだろう。「自動車」はますます、干乾びた魅力のない存在になり、ジジイのようなものになっていく。十年後の2018年には、電気自動車が白物家電のように走り、街には再び路面電車が復権するのだろう。それでもガソリン車を汽車の愛好家のように愛でる人は残るだろうが…。多分1リッター500円以上のガソリンで。
バブルで頭にヘリウム詰まっている僕のような世代には、少し奇異な世界に思う。でも十代のユーチューブ世代にとっては、別にどうでもいいことなのだろう。
やがて自動車は、蒸気機関車のように、映画の中にある歴史の「記号」になっていくのだ。
安部元首相を再評価する。
戦略的互恵関係の構築に向け。相互訪問を途絶えさせない関係をつくっていくことが重要だ。国が違えば利益がぶつかることがあるが、お互いの安定的関係が両国に利益をもたらすのが戦略的互恵関係だ。問題があるからこそ、首脳が会わなければならない。
私が小学生のころに日本で東京五輪があった。そのときの高揚感、世界に認められたという達成感は日本に対する誇りにつながった。中国も今、そういうムードにあるのだろう。その中で、チベットの人権問題について憂慮している。ダライ・ラマ側との対話再開は評価するが、同時に、五輪開催によってチベットの人権状況がよくなったという結果を生み出さなければならない。そうなることを強く望んでいる。
これはチベットではなくウイグルの件だが、日本の東大に留学していたトフティ・テュニヤズさんが、研究のため中国に一時帰国した際に逮捕され、11年が経過している。彼の奥さん、家族は日本にいる。無事釈放され、日本に帰ってくることを希望する。
(胡氏との会食にて述べる)
安部元首相は偉いと思う。信念を貫かないことに得を見出す、老獪な政治家に一矢を報いている。しかし勿論、政治は正論だけではない。が、安部氏の態度を無闇に批判した朝日のような欺瞞に満ちた新聞は思い知るべきだ。偽善に満ち満ちた高慢な態度が日本を疲弊させている一因であることを。
バルテュスは違法なのか。表現の自由を奪う暴論。

子どもの性の商品化に歯止めをかけようと、日本ユニセフ協会は11日、児童買春・児童ポルノ禁止法の改正を求めるキャンペーンを始めた。18歳未満を写した性的画像・写真の単純所持を処罰対象に加えるとともに、マンガの虐待描写なども「準児童ポルノ」として違法化するよう訴え、賛同署名を集め、政府・国会に提出する。
中国人のアグネス・チャンが筆頭になってユニセフの下部組織でもない組織が痴呆的な表現規正法を進めようと、、あたかも正義の旗印のようになって表現を規制をすすめていくそうだ。
どこに正当性が生じるのか誰が判断するのだろう。確かに幼児性愛は行為としては犯罪としても仕方ないが、空想また想像上のポルノを規制していく(絵でも規制する)というのだから、何が幼児性愛を喚起するポルノであるのか明確な定義をするべきだ。所持で逮捕する等と、自由を売り渡しているとしか思えず、明らかに国家権力の濫用にしかならない。
配布の容疑で逮捕したとしても明らかに表現の自由に抵触するし、(定義が曖昧なら)いわんや所持で逮捕するとはどういうことか。先日もロバート・メイプルソープの写真を猥雑だと裁判で争ったばかりであって、日本のポルノグラフィと芸術判断の定義など曖昧極まりないし、そんな馬鹿な法案が可決した暁には、国家治安維持法以上の悪法になりかねない。
仮に、一度アメリカで問題となったバルテュスのワイン(ムートン・ロートシルト)ラベルを持っているだけで逮捕できるようになったら、それを規制する基準等なにもないのです。表現として幼児の姿態を撮影した写真ならば本人(子供)が介在する問題となっても理解できるが、絵画(及び漫画)で規制するという理由づけには甚だ無理がある。性犯罪者を取り締まることに注力を向けるべきであり、表現の規制で性犯罪がなくなるわけではない。
表現の自由を奪うような社会には、アートはありえないし、越境していく冒険者も生まれない。偽善者どもはそういうことを知っての確信犯か、はたまた阿呆なのか。
児童買春・児童ポルノ禁止法の改正(悪)には、私は反対です。
東京ドーム・ポリスのライブを観る。

ポリスが再結成し、ライブを観た。
二十年前に同じ東京ドームでスティングのコンサートを観たのだけれども、五十半ばを過ぎたスティングがポリスで歌うとは想像しなかった。そういう意味で確かに懐メロのコンサートなのだろう。昔ベンチャーズが80年代に来日した時、そのファンの方々に対する若かった僕らの冷ややかな眼差しを思うと、どこか素直に喜べない何かが潜んでいる。
ロックの世界は老いないと誰もが思い、しかしロックも老いている。(現実的に)J・ロットンが『ロックは死んだ』と言ってから約30年が経ち、そろそろ壮年期から老年になりつつあるかつての若者たちが、リバイバル・マーケットを生み出している。『自分たちはまだ若い。元気があるんだ』そういうファンの想いがこだまし、同時にかつて失われた青年期へのノスタルジーが背後から溢れてくる。『昔のロックは凄かった』と、息子や娘に自慢するのか、それとも最後の一声を聴いてみたいのか。
演奏は素晴らしかった。最後までオリジナルメンバー3人の演奏で乗り切り、若さのドーピングよろしくゲストのミュージシャンが活躍するRストーンズとは違う。A・サマーズのギターも、熟成された凄みを感じさせるし、S・コープランドのパーカッションは、六十半ばとは信じられないエネルギッシュな演奏だった。スティングの声は、相変わらず素晴らしい高音で歌いあげる。
確かに再結成はある種の追憶のビジネスかもしれない。でも理屈っぽく思う自分よりも、素直に楽しむ方がいいなと思う一夜だった。
大学を再建する必要ってあるんですか。
日経ネットによると、こういう報告が出たそうだ。
私大や短大「経営困難」98法人・事業団調査、再建支援へ
日本私立学校振興・共済事業団は、全国の大学法人64と短大法人34が早急に改善が必要な「経営困難状態」(イエローゾーン)にあり、うち15法人は「いつつぶれてもおかしくない」レベルと判定した。今後、経営実態を精査し必要に応じて支援に乗り出す。法人名は未公表だが、イエローゾーンが調査対象の約15%に当たる計98法人に上ったことで、大学・短大の淘汰時代到来が現実味を増した。
同事業団は大学法人521と短大法人144の2006年度決算と07年度の入学者数動向などを基に、教育研究活動による現金収支(キャッシュフロー)や外部負債、運用資産に着目して7ランクに分類した。 (NIIKENET)
僕の感想としては、もうそういう大学などは必要ないと思う。現状の有名大学が縮小することはあっても、潰れることはないだろう。潰れるような大学に税金を投入したり、大学に希望者全員が(金さえ出せば)行けるようなことは無意味である。高等教育が遍く必要であると見なしている人々の頭がオカシイと思う。勿論、大学が必要ないというわけではない。大学は必要な人だけが行く、本当に意味のある教授・生徒・研究者が行くべきだからである。
第三セクターのレジャーランドが倒産するように、こういう大学等もなくなっていく。そういうことと同じであると思う。
大学に行けばいいというのは、あくまで有名大学に過ぎない。早稲田大学の学生から話を聞いたら、5万人もの学生が早稲田にいるという。仮に大学を出る目的が就職であったとする。通常の有名企業1社が雇用する新卒はよくても数百人だ。仮に日本の大学が早稲田だけだったとしても、新卒学生で人気企業トップの約40-50社程度が埋まる計算になる。
もはやなんとなく大学にいく時代ではないだろうと思う。潰れることころは潰れるので当然だ。さまざまな格差があってしかるべきであり、(実質なかった時代があるのだろうか)格差がないとか言っている幻想は捨てた方がいいと思う。実質それ(税金等)を負担していくのは、30代以前の世代なのだ。

