
六本木ヒルズのけやき坂に架かる橋から眺めると、東京タワーがちょうど遠望できる。今年は50周年らしく、様々なライトアップとともに、50の数字が窓に示されている。
2011年の地上波デジタルとともに、東京タワーはテレビ塔としての主役の座を降り、台東区にできる新タワーに役目を譲るそうだ。しかしケータイの発信塔としての機能等はそのまま残るので、取り壊されてしまうわけではない。
名古屋にも、札幌にもテレビ塔はあって、そこも観光地となっている。1958年当時、20歳だった若者も、もはや古希(70歳)となり、インターネットでNHKもVODを実施した2008年、TVの時代は翳りを迎えている。1950年代の黄金期だった映画界(東宝、東映、日活等)と同じく、権勢をほこるテレビ業界も歴史になっていくのだろう。
僕は学生の頃(1990年頃)、東京タワーの特別ラジオ番組をつくる仕事に関わったことがある。放送作家の下請けの下請けみたいな仕事だったけど、『東京タワー』みたいなモノを売り込むっていう仕事があるのだとはじめて知ったのは収穫だった。
もちろん今も広告代理店とかが、東京タワーを売り込んでいるし、そのおかげで無償で綺麗なタワーの姿を眺めることができるのは、東京都民と観光客にとってはあり難いことだ。皆に愛されている限り、100周年を迎えるかもしれない。
そのうちかっては「テレビ」という電波を流していた塔なんだよと、今の若者が孫に語る時代が来るのだろうか。
夏の京都・円通寺と比叡山の借景

大雨に苦労しながら、晩夏の京都へ出掛けた。
新幹線に閉じ込められたりと道中は散々だったが、祇園のいづうで鱧寿司を食うと来て良かったと思った。
八月の末ということもあり、祇園にも人は少なかった。河原町の天よしというてんぷら屋で海老とキスを食い、木屋町のバーで地元の客と話した。明日から東京に行くけど、どこか良いとこないかと訊いてくる。東京は怖いんじゃないかと、彼女は言った。
京都は平日の昼間も活気があるわけではない。地方都市独特のゆっくりした時間が流れている。毎日東京の喧騒の中で生活していると、多分少しずつズレが蓄積していく。
円通寺は北山の向こうにある、後水尾天皇の御所跡であり、延宝6年(1678年)、文英尼を開基として創建されたという。借景で有名であり、ちょうど比叡山が良く眺められる臨済宗の禅寺である。しかし近隣の開発が進み、借景の一部にマンションが建つのだという。
その問題について、腹がたつのは理解はできる。しかし拝観料を払い、ここまで足を運び、せっかくその素晴らしい借景の比叡山を眺めているのに、そこの坊主がくどくどテープで愚痴を聞かせる。これはどうかと思う。
借景が失われていくかどうかは、京都人の問題である。観光産業を主とし、文化保全に邁進し、仏教界も過去から努力しているなら、そういう問題は起きていないはずだ。高さ制限、景観の保全等がしっかり機能しているならば、京都の街中に乱立するビル、マンション群もなかっただろう。京都駅のような最新の建築を望みながら、一方で古都であるという矜持を保つのは無理である。
そういう裏舞台は自分たちで努力していくしかないだろう。外から来る人に、さもありがたい御題のように押しつけるのは止めて欲しいなと思う。外国の人も府外の人も、素晴らしいと思えば尊敬するし、再訪を望むだろう。
街の姿は、そこに住む人の心を反映する鏡に過ぎない。
台頭するハイブリッド。アメ車の終焉?

ガソリン価格の上昇を背景に「やがては…」と思っていたが、こんなに早く来るとは予想外だった。最大の自動車市場、米国の5月新車販売で日本車のシェアが42%と初めて4割を突破したのだ。GM(ゼネラル・モーターズ)など米ビッグ3との合計差は2ポイントまで接近した。ユーザーの燃費性能志向は今後も衰えそうになく、近々に月次シェアの「逆転」が現実味を帯びてきた。 2008年6月11日(水)09:00 NBonline
R16号、基地、福生、横須賀等、アメリカを巡る記号の終焉。
典型的な『アメ車文化』にノスタルジックな憧憬を抱いている日本人のオヤジたちにとって、驚くべき話だ。50年代の物質文明を謳歌したアメ車=石油文明の象徴は、恐竜と同じ道を辿りそうである。
早晩ハマーを駆るIT社長または青年実業家?のような存在は、嘲笑の対象になり、やはり所ジョージさんは困ってしまうのだろう。「自動車」はますます、干乾びた魅力のない存在になり、ジジイのようなものになっていく。十年後の2018年には、電気自動車が白物家電のように走り、街には再び路面電車が復権するのだろう。それでもガソリン車を汽車の愛好家のように愛でる人は残るだろうが…。多分1リッター500円以上のガソリンで。
バブルで頭にヘリウム詰まっている僕のような世代には、少し奇異な世界に思う。でも十代のユーチューブ世代にとっては、別にどうでもいいことなのだろう。
やがて自動車は、蒸気機関車のように、映画の中にある歴史の「記号」になっていくのだ。
安部元首相を再評価する。
戦略的互恵関係の構築に向け。相互訪問を途絶えさせない関係をつくっていくことが重要だ。国が違えば利益がぶつかることがあるが、お互いの安定的関係が両国に利益をもたらすのが戦略的互恵関係だ。問題があるからこそ、首脳が会わなければならない。
私が小学生のころに日本で東京五輪があった。そのときの高揚感、世界に認められたという達成感は日本に対する誇りにつながった。中国も今、そういうムードにあるのだろう。その中で、チベットの人権問題について憂慮している。ダライ・ラマ側との対話再開は評価するが、同時に、五輪開催によってチベットの人権状況がよくなったという結果を生み出さなければならない。そうなることを強く望んでいる。
これはチベットではなくウイグルの件だが、日本の東大に留学していたトフティ・テュニヤズさんが、研究のため中国に一時帰国した際に逮捕され、11年が経過している。彼の奥さん、家族は日本にいる。無事釈放され、日本に帰ってくることを希望する。
(胡氏との会食にて述べる)
安部元首相は偉いと思う。信念を貫かないことに得を見出す、老獪な政治家に一矢を報いている。しかし勿論、政治は正論だけではない。が、安部氏の態度を無闇に批判した朝日のような欺瞞に満ちた新聞は思い知るべきだ。偽善に満ち満ちた高慢な態度が日本を疲弊させている一因であることを。
バルテュスは違法なのか。表現の自由を奪う暴論。

子どもの性の商品化に歯止めをかけようと、日本ユニセフ協会は11日、児童買春・児童ポルノ禁止法の改正を求めるキャンペーンを始めた。18歳未満を写した性的画像・写真の単純所持を処罰対象に加えるとともに、マンガの虐待描写なども「準児童ポルノ」として違法化するよう訴え、賛同署名を集め、政府・国会に提出する。
中国人のアグネス・チャンが筆頭になってユニセフの下部組織でもない組織が痴呆的な表現規正法を進めようと、、あたかも正義の旗印のようになって表現を規制をすすめていくそうだ。
どこに正当性が生じるのか誰が判断するのだろう。確かに幼児性愛は行為としては犯罪としても仕方ないが、空想また想像上のポルノを規制していく(絵でも規制する)というのだから、何が幼児性愛を喚起するポルノであるのか明確な定義をするべきだ。所持で逮捕する等と、自由を売り渡しているとしか思えず、明らかに国家権力の濫用にしかならない。
配布の容疑で逮捕したとしても明らかに表現の自由に抵触するし、(定義が曖昧なら)いわんや所持で逮捕するとはどういうことか。先日もロバート・メイプルソープの写真を猥雑だと裁判で争ったばかりであって、日本のポルノグラフィと芸術判断の定義など曖昧極まりないし、そんな馬鹿な法案が可決した暁には、国家治安維持法以上の悪法になりかねない。
仮に、一度アメリカで問題となったバルテュスのワイン(ムートン・ロートシルト)ラベルを持っているだけで逮捕できるようになったら、それを規制する基準等なにもないのです。表現として幼児の姿態を撮影した写真ならば本人(子供)が介在する問題となっても理解できるが、絵画(及び漫画)で規制するという理由づけには甚だ無理がある。性犯罪者を取り締まることに注力を向けるべきであり、表現の規制で性犯罪がなくなるわけではない。
表現の自由を奪うような社会には、アートはありえないし、越境していく冒険者も生まれない。偽善者どもはそういうことを知っての確信犯か、はたまた阿呆なのか。
児童買春・児童ポルノ禁止法の改正(悪)には、私は反対です。
東京ドーム・ポリスのライブを観る。

ポリスが再結成し、ライブを観た。
二十年前に同じ東京ドームでスティングのコンサートを観たのだけれども、五十半ばを過ぎたスティングがポリスで歌うとは想像しなかった。そういう意味で確かに懐メロのコンサートなのだろう。昔ベンチャーズが80年代に来日した時、そのファンの方々に対する若かった僕らの冷ややかな眼差しを思うと、どこか素直に喜べない何かが潜んでいる。
ロックの世界は老いないと誰もが思い、しかしロックも老いている。(現実的に)J・ロットンが『ロックは死んだ』と言ってから約30年が経ち、そろそろ壮年期から老年になりつつあるかつての若者たちが、リバイバル・マーケットを生み出している。『自分たちはまだ若い。元気があるんだ』そういうファンの想いがこだまし、同時にかつて失われた青年期へのノスタルジーが背後から溢れてくる。『昔のロックは凄かった』と、息子や娘に自慢するのか、それとも最後の一声を聴いてみたいのか。
演奏は素晴らしかった。最後までオリジナルメンバー3人の演奏で乗り切り、若さのドーピングよろしくゲストのミュージシャンが活躍するRストーンズとは違う。A・サマーズのギターも、熟成された凄みを感じさせるし、S・コープランドのパーカッションは、六十半ばとは信じられないエネルギッシュな演奏だった。スティングの声は、相変わらず素晴らしい高音で歌いあげる。
確かに再結成はある種の追憶のビジネスかもしれない。でも理屈っぽく思う自分よりも、素直に楽しむ方がいいなと思う一夜だった。
大学を再建する必要ってあるんですか。
日経ネットによると、こういう報告が出たそうだ。
私大や短大「経営困難」98法人・事業団調査、再建支援へ
日本私立学校振興・共済事業団は、全国の大学法人64と短大法人34が早急に改善が必要な「経営困難状態」(イエローゾーン)にあり、うち15法人は「いつつぶれてもおかしくない」レベルと判定した。今後、経営実態を精査し必要に応じて支援に乗り出す。法人名は未公表だが、イエローゾーンが調査対象の約15%に当たる計98法人に上ったことで、大学・短大の淘汰時代到来が現実味を増した。
同事業団は大学法人521と短大法人144の2006年度決算と07年度の入学者数動向などを基に、教育研究活動による現金収支(キャッシュフロー)や外部負債、運用資産に着目して7ランクに分類した。 (NIIKENET)
僕の感想としては、もうそういう大学などは必要ないと思う。現状の有名大学が縮小することはあっても、潰れることはないだろう。潰れるような大学に税金を投入したり、大学に希望者全員が(金さえ出せば)行けるようなことは無意味である。高等教育が遍く必要であると見なしている人々の頭がオカシイと思う。勿論、大学が必要ないというわけではない。大学は必要な人だけが行く、本当に意味のある教授・生徒・研究者が行くべきだからである。
第三セクターのレジャーランドが倒産するように、こういう大学等もなくなっていく。そういうことと同じであると思う。
大学に行けばいいというのは、あくまで有名大学に過ぎない。早稲田大学の学生から話を聞いたら、5万人もの学生が早稲田にいるという。仮に大学を出る目的が就職であったとする。通常の有名企業1社が雇用する新卒はよくても数百人だ。仮に日本の大学が早稲田だけだったとしても、新卒学生で人気企業トップの約40-50社程度が埋まる計算になる。
もはやなんとなく大学にいく時代ではないだろうと思う。潰れることころは潰れるので当然だ。さまざまな格差があってしかるべきであり、(実質なかった時代があるのだろうか)格差がないとか言っている幻想は捨てた方がいいと思う。実質それ(税金等)を負担していくのは、30代以前の世代なのだ。
新しいGT-Rの広告戦略とイメージ

6年前にゴーン氏が約束した日産GTRがデビューし、築地にある日産本社には、カラーバリエーションのラインナップとともに数台のGT-Rを展示している。モーターショーでは予約制らしいが、ここでは自由に触れるので、座席にも座ってみた。タイトな革張りのシート、情報機能の満載したナビ、現代的なステアリング、それでも日産のDNAを感じさせるデザインになっている。
私にとっての日産・スカイラインのイメージは、『神奈川』、『暴走族』、『セブンスター』がコアになっている。明け方の本牧埠頭近く、また第三京浜で爆走する姿であり、少し悪いぼんぼんが乗っているというイメージがある。スカイラインは嫌味なほど男臭い自動車であり、コンサバティブなセンス人たちは乗らない自動車だった。
時代が変遷し、バブルを経て、その当時の方々も五十代半ばになっている。確かにギャラリーを見渡すと、若い者は少なく、白髪頭の紳士たちが熱心に覗き込み、ステアリングを握っている。800万円という価格もあるが、やはり自動車に情熱を持つ人々は、確かに高齢化しているようだ。
今回のGT-Rは日産の情熱を表現したものだと、ゴーン氏は語っていた。若者に情熱を伝えるために(?)通常のTV-CFは行わず、路上で発表前に露出するというハプニング的なシティジャックの演出を用いたり、ブログを活用し、若者に自動車の情熱を伝える役割を与え、紙媒体、ゲーム等でのPRを実施している。
走りはポルシェターボ以上だという、0-100kmも3.6秒。凄まじい性能である。
しかしはたして若者が再び情熱を取り戻すきっかけになるのかは、正直分からない。デザインもセンスは良くなっているが、少々やぼったい。でもそこがGT-RのDNAなのである。
最近40代後半から50代向けのファッション誌が創刊されている。ドルチェ&ガッバーナ、その他イタリアブランドを着た年配の方が、男臭さを発散し、確かに六本木のクラブでもそういうタイプの紳士を目にする。昔、暴走族でやんちゃをしていたけれど、今では企業の役員になって、それでも過去の熱を忘れられない方々。
蓋し、GT-R=リッチなチョイ悪親父カーである。どこまで若者を魅了するかは未知数であるが、男の回春薬としては、ポルシェ以上であるのは間違いないだろう。
全日空ムンバイ直行便に乗る。

先週出張のため、インド・ムンバイへの直行便に乗った。全席ビジネスクラスで、2007年9月1日から就航。ボーイング737-700ER型機で飛行し、36席全てがビジネスクラスの客室仕様となっている。
乗り心地は、小さな機体であったからか揺れが多少大きかったと思う。でも偏西風がキツクなってきているからかもしれない。10月末からは、確かに燃料の消費量も時間も多くかかる時期になり、成田を出て、長崎で一度給油が必要になる程だそうだ。
食事は洋食・和食と特別の料理がサービスされる。和食を食べたけれど、いままでの飛行機の食事のレベルを上回る美味しさだった。しかし想像よりも座席は堅く、僕にとって寝心地は良くはなかった。アメニティは気配りも良く充実していたが、インドの航空会社のジェット・エアがブルガリ製のアメニティを常備していることを比べてしまうと、少々物足りない。<モデルのような女性をCAにし、それを売りにしている高級志向の会社ではあるけど>
最大のメリットは、なによりトランジットがなく、10時間弱でムンバイまで到着できることに尽きる。早く、安全に到着できることの他、確かに大切なのことはないけれど、さらに贅沢を言ってしまうのが客の常である。
断片。月に落下していく隕石の姿。

諸行無常の響きあり。
無常観を感じる映像<イメージ>だった。
21世紀になっての映像技術とメディアの整備によって、いままで観たことがないものが見れるようになった。NASAが提供している月に衝突する隕石の映像も、そのひとつである。
月は深くわたしたちの生活に関わっている星である。今日は大潮だなとか、小潮だなと、私はサーフィンをするようになってからとても月の存在を強く感じるようになった。月は毎日の潮だけでなく、28日周期でわたしたちにさまざまな影響を及ぼしている。でもそれは地球→月の視線であって、人の観念でしかない。月は観念を超越して存在しているという真実を、いまさらながらに痛感する。
その映像の断片は、とても痛烈な批評のようだ。幾千年の歴史も一時の幻か。人生の儚さを覗き見るような心地がするのは、蓋し私だけではない。
<tokyotaro>

