
ポケモンカードが25億円で落札されたというニュースを見て、私は強い違和感を覚えた。売買そのものを否定するつもりはない。市場において価格が跳ね上がることはあり得るし、所有物をいくらで売ろうと個人の自由である。交換とは、本来、所有の完全な移転だ。売るということは手放すことであり、未来の評価や価格をコントロールできない状態を引き受けることだ。その不可逆性、象徴的な切断こそが交換の純粋性である。
しかし、私の違和感は価格そのものにはない。それが「羨望を煽る語り口」で拡散される構造にある。
現代のニュースは、もはや単なる報道ではない。SNSのタイムラインを通過するとき、情報はアルゴリズムによって選別され、増幅される。アルゴリズムは公共性や節度を基準にしていない。基準はエンゲージメント、すなわち反応の強さだ。驚き、怒り、羨望、嫌悪――感情の振幅が大きいものほど拡散される。
25億円という数字は、そのための理想的な素材だ。「史上最高額」「夢の一枚」といった見出しは、経済的分析のためではなく、感情を刺激するために設計される。アルゴリズムはそれを検知し、さらに多くの目に届ける。こうして交換は静かな契約から、欲望を演出するスペクタクルへと変質する。
問題は欲望そのものではない。欲望は人間の構造であり、消すことはできない。だが、SNSのアルゴリズムは欲望を穏やかに扱わない。それを極端化し、比較を加速させ、序列を可視化する。持つ者と持たざる者の差異を、絶えずスクリーン上に提示する。
未成熟な子供たちは、その断片化された成功像を文脈抜きで受け取る。「これほどの価値がある」「一枚で人生が変わる」。努力の時間軸や偶然性、投機のリスクは消え、結果だけが輝く。カードショップ襲撃のような事件が起きるとき、背景には経済的困窮や家庭環境など複合的要因がある。しかし、羨望を煽る物語が短絡的回路を強化することも否定できない。
アルゴリズムは責任を負わない。ただ「反応」を最大化する。その結果、社会は静かに比較と焦燥の装置へと変わる。交換の純粋性は、演出された優越の物語に覆われる。
アメリカ社会には寄付文化もあり、合法に得た富の使途は自由だという前提も強い。しかし、その物語がSNSを通じて日本にまで輸入されるとき、文化的な緩衝材は薄い。日本には少なくとも、富を控えめに扱う美意識があった。だがアルゴリズムは文化差を考慮しない。反応の強い物語は国境を越えて流れ込む。
ここで問うべきは、富の存在ではなく、物語の設計だ。価格の跳躍を神話化する語りを選ぶのか。それとも、投機性や偶然性、リスクを含めた複層的な文脈を示すのか。アルゴリズムが刺激を優先するなら、人間の側が節度を持つしかない。
世界を閉じた管理空間にしたくはない。交換は自由であってよい。しかし、欲望を増幅する機械に社会の感情を委ねることもまた、望ましいとは思えない。
問題は25億円ではない。問題は、それをどう語り、どう広げるかである。羨望を設計するアルゴリズムの時代において、私たちはせめて語りの節度を取り戻せるだろうか。
