東京は冬だったか。春もなく、いや夏だったかもしれない。
部屋。空虚さはここだけでなく、そこかしこに溢れていた。ペスト菌が溢れた世界にて、住居に流刑されたと言ったのはカミュだったが、極小さな無生物からの寄生に怯えて暮らす私たちも、同じようにロックダウンをして、身を守っていた。
空気清浄機が静かに回っているが、これが微細なウイルスを駆除するわけでもなく、それを体感できることもない。しばし点滅する信号が、確かにやっているのだというメッセージを送信してくる。機械が私たちに、安心しなさいと語るのだ。それは木像を神と祈る未開人と変わりはない。(現実界は力を失い、主体なき機械が私たちを慰める)
日本人は奇妙な潔癖症からか、または自分を公から隠したいという遁世の気持ちからか、ウイルス以前から顔をマスクで隠す人が多かった。その効果があったのか、マスクの生活への移行はスムースだった。花粉症であるとか、様々な理由を述べてマスクをしなければなかったのが、言うまでもなく誰もが自然のこととして受け入れた。マスクは肌の外に、手と半ズボンなら脚の他に、唯一露出していた顔の半分を隠す。口と鼻という二つの穴、その前から隠されていた肛門、その他の性器の穴は塞がれた。現実を感じる受け入れ口は、目と耳を除いて、閉じてしまったようだ。その分、目と耳は無理やり稼働しなくてはならなくなった。
そして目は書かれた文字と、映像(絵)という象徴界へさらに向かう。かつてマクルーハンがTVはマッサージだと言ったが、2020年の現在では、スマートフォンも、インターネット環境そのものがTVと同じ、感覚と刺激の拡張になっていて、そこからツイートやインスタグラム、またリンクした無量の動画の渦のなかに没入し、世界は透明になったようでありながらも、まさに混沌とした。
無量にあるデバイスから誰もが侵入できるネット界は、自分の似姿を加工し、投影できる場所でもある。ナルシスは、自らの姿におぼれて死んでしまうが、ナルシスが水面に映る自分のイメージに恋をしたからと言われる。つまりナルシスは現実の肉体ではなく、「私」から分裂し、他者化した自己のイメージに溺れてしまった。それから鏡も、写真も進化し、自己像のイメージも分裂に悩むのは、映画俳優や、一部の有名人だけの出来事ではなくなった。そこいる私と、ここにいる私は違う。二年前のあの写真の中の姿が本当の「私」で、今の「私」はそうではない等。しかもイメージは同時に社会化され、想像界と象徴界とも結ばれている。もしその自分を否定できるのならば、会ったこともない政治家や有名人も同様に存在しないと断言するようなものだ。そこには虚偽も事実もなく、無限につながる鏡=イメージの共振があるだけだ。まるで対峙した二枚鏡を覗き込んだ時のように。
ラカンの言う「現実界」「象徴界」「想像界」に存在する「私」をまず取り込む、存在である「現実界」の上、第二の皮膚は「言語」であり、第三の皮膚は「想像(イメージ)」である。その外の構造は、順に「家族」「共同体(学校、会社)」「国家(大きな社会)」と階層化していく。しかし高度化するメディアはウイルスのように、その身体を書き換えて、増殖し、階層化し、「私」(皮膚)を蹂躙する。階層化した世界を打ち壊し、あらゆる穴に侵入していく。もはや構造も、いったい何が層となっていくかもわからない。
「私」は探し求める。父や母が好きだった物語を受け継いでいるか、国家が制度化した標準的な国民であるか、または消費社会が生み出した膨大な物語のなかでどういう役割を演じているか。好きな有名人(宗教家)が演じたコンテクストに自分が寄り添っているか、憧れるブランドの世界に自分は繋がっているか等、様々な要因のなかに自らを失い、さ迷っている。
ジャン・ボードリヤールの視点を借りて、「広告」を「SNS(ネット)」に置き換えるとこういうことである。
■SNSの狡猾さと戦略上の価値は、まさに次の点に存在している。すなわち、誰にも自分の社会的威信を確認したいという気持ちを起こさせて他人と比較させることである。
■SNSは決して一人の人間だけに対して向けられることはなく、個人を他者との示唆的関係において標的にしている。個人の「奥深い動機」をひっかけたように見えるときでさえ、SNSはいつもよく目立つやり方でそうしているのだ。
■つまり、彼や彼女と親しい人々や集団あるいは階層化された全体を、読解と解釈の過程、SNSが作り出す自己顕示の過程へと呼び出すのである。
高度資本主義は半世紀前に、商品を使用価値ではなく、象徴的な価値へと変貌していくことへ変容し、その先に個人が自分に対して商品化していく次元へと至っている。自己顕示のさなか、欲望の階層化の果てに、自らを売春婦とし、その稼いだ貨幣を、また別の売春婦へ贈与するのである。それでも自己顕示により社会性の中で、自らの商品価値が拡大すると想像しながら。
現在、世界の検索を事実上支配しているGAFAの、特にグーグルは、象徴界(言葉)所有してしまうことを目指している。紐づけられた現実界、想像界が、そこから結びつけ、資本主義のシステムに処理され、操作され、または個人の物語が消費されていく。消費された「私」はまた顔を失い、新しい顔を求めて回遊する。その行動に、すべての消費が紐づけられていく。
中国の故事に、渾沌(こんとん、拼音: húndùn)がある。中国神話に登場する怪物の一つであり、四凶の一つとされ、その名の通り、混沌(カオス)を司る。犬のような姿で長い毛が生えており、爪の無い脚は熊に似ている。目があるが見えず、耳もあるが聞こえない。脚はあるのだが、いつも自分の尻尾を咥えてグルグル回っているだけで前に進むことは無く、空を見ては笑っていたとされる。善人を忌み嫌い、悪人に媚びるという。また別の説では、頭に目、鼻、耳、口の七孔が無く、脚が六本と六枚の翼が生えた姿という説もあるが、荘子いわく、目鼻をつけると死んでしまうそうだ。
私たちは移動できなくなることにより、さらに混沌に引き込まれ、現実界から遠ざかっていく。官能と暴力の彼岸へと、世界は邁進し、さらなる混沌へと引き込まれていく気がしてしまう。だが、もしAIによる、つまり機械による効率化や管理が、この混沌に道理を持ち込んだらどうだろうか。そこが一番恐ろしい事態かもしれない。
蓋し、混沌の死と同時に、高度資本主義も絶滅するのだと思う。

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