コロナ禍に問われる日本人の知恵

 コロナ禍になったからか、にわか自然科学者や、医者もどきが増殖している。ひとつの話題に「うがい」が意味あるかというのがあって、意味がないという人の論は、厚生労働省が、新型コロナに対するうがいの効果について、「世界的にうがいの習慣は少なく、科学的に確立されたエビデンス(根拠)はない」と説明するのに相乗りしているに過ぎない。しかし日本の厚生労働省は、「のどの調子を整えるために習慣になっている人もいる。とくに推奨はしていないが、否定するものではない」とはしている。

 「うがい」という行為単体での効果を、科学的に云々は、そんなことはどうでも良いとまで言わないが、日本人が続けてきた経験の方が大切だろう。

 大抵、うがいをする時、帰宅し、先ずは洗面所など鏡のある場所へ行き、手を洗い、自分の顔を見、コップに水、薬を入れ、がらがらっと上を向いてやり、吐き出し、鼻が出ればかみ、口元を洗う。  

 うがい単体よりも、こういうストーリー化された行為が重要だ。ギリシャ人は自己への配慮を、人の知恵に大切とした。

 うがいをする時、顔色、喉や首の筋肉の違和感、鼻腔の通りを知り、また手を洗い汚れも落としている。手だけならば、アルコールで洗うで十分だが、鏡を見て自分を調べる行為は欠落する。これが健康に資することは言うまでもない。

 なんでもファクトばかりを一面的に捉える還元主義は馬鹿らしい。理が先立ってばかりは、そもそもの全体を失うことも多い。

 何が良い、何がだめだと理が先立つ前に、自らを感じることが大事だろう。

混沌、あるいは入れ子化していく「私」の彼岸。

 東京は冬だったか。春もなく、いや夏だったかもしれない。

 部屋。空虚さはここだけでなく、そこかしこに溢れていた。ペスト菌が溢れた世界にて、住居に流刑されたと言ったのはカミュだったが、極小さな無生物からの寄生に怯えて暮らす私たちも、同じようにロックダウンをして、身を守っていた。

 空気清浄機が静かに回っているが、これが微細なウイルスを駆除するわけでもなく、それを体感できることもない。しばし点滅する信号が、確かにやっているのだというメッセージを送信してくる。機械が私たちに、安心しなさいと語るのだ。それは木像を神と祈る未開人と変わりはない。(現実界は力を失い、主体なき機械が私たちを慰める)

 日本人は奇妙な潔癖症からか、または自分を公から隠したいという遁世の気持ちからか、ウイルス以前から顔をマスクで隠す人が多かった。その効果があったのか、マスクの生活への移行はスムースだった。花粉症であるとか、様々な理由を述べてマスクをしなければなかったのが、言うまでもなく誰もが自然のこととして受け入れた。マスクは肌の外に、手と半ズボンなら脚の他に、唯一露出していた顔の半分を隠す。口と鼻という二つの穴、その前から隠されていた肛門、その他の性器の穴は塞がれた。現実を感じる受け入れ口は、目と耳を除いて、閉じてしまったようだ。その分、目と耳は無理やり稼働しなくてはならなくなった。

 そして目は書かれた文字と、映像(絵)という象徴界へさらに向かう。かつてマクルーハンがTVはマッサージだと言ったが、2020年の現在では、スマートフォンも、インターネット環境そのものがTVと同じ、感覚と刺激の拡張になっていて、そこからツイートやインスタグラム、またリンクした無量の動画の渦のなかに没入し、世界は透明になったようでありながらも、まさに混沌とした。

  無量にあるデバイスから誰もが侵入できるネット界は、自分の似姿を加工し、投影できる場所でもある。ナルシスは、自らの姿におぼれて死んでしまうが、ナルシスが水面に映る自分のイメージに恋をしたからと言われる。つまりナルシスは現実の肉体ではなく、「私」から分裂し、他者化した自己のイメージに溺れてしまった。それから鏡も、写真も進化し、自己像のイメージも分裂に悩むのは、映画俳優や、一部の有名人だけの出来事ではなくなった。そこいる私と、ここにいる私は違う。二年前のあの写真の中の姿が本当の「私」で、今の「私」はそうではない等。しかもイメージは同時に社会化され、想像界と象徴界とも結ばれている。もしその自分を否定できるのならば、会ったこともない政治家や有名人も同様に存在しないと断言するようなものだ。そこには虚偽も事実もなく、無限につながる鏡=イメージの共振があるだけだ。まるで対峙した二枚鏡を覗き込んだ時のように。

 ラカンの言う「現実界」「象徴界」「想像界」に存在する「私」をまず取り込む、存在である「現実界」の上、第二の皮膚は「言語」であり、第三の皮膚は「想像(イメージ)」である。その外の構造は、順に「家族」「共同体(学校、会社)」「国家(大きな社会)」と階層化していく。しかし高度化するメディアはウイルスのように、その身体を書き換えて、増殖し、階層化し、「私」(皮膚)を蹂躙する。階層化した世界を打ち壊し、あらゆる穴に侵入していく。もはや構造も、いったい何が層となっていくかもわからない。

 「私」は探し求める。父や母が好きだった物語を受け継いでいるか、国家が制度化した標準的な国民であるか、または消費社会が生み出した膨大な物語のなかでどういう役割を演じているか。好きな有名人(宗教家)が演じたコンテクストに自分が寄り添っているか、憧れるブランドの世界に自分は繋がっているか等、様々な要因のなかに自らを失い、さ迷っている。

 ジャン・ボードリヤールの視点を借りて、「広告」を「SNS(ネット)」に置き換えるとこういうことである。

 SNSの狡猾さと戦略上の価値は、まさに次の点に存在している。すなわち、誰にも自分の社会的威信を確認したいという気持ちを起こさせて他人と比較させることである。

 SNSは決して一人の人間だけに対して向けられることはなく、個人を他者との示唆的関係において標的にしている。個人の「奥深い動機」をひっかけたように見えるときでさえ、SNSはいつもよく目立つやり方でそうしているのだ。

 ■つまり、彼や彼女と親しい人々や集団あるいは階層化された全体を、読解と解釈の過程、SNSが作り出す自己顕示の過程へと呼び出すのである。

 高度資本主義は半世紀前に、商品を使用価値ではなく、象徴的な価値へと変貌していくことへ変容し、その先に個人が自分に対して商品化していく次元へと至っている。自己顕示のさなか、欲望の階層化の果てに、自らを売春婦とし、その稼いだ貨幣を、また別の売春婦へ贈与するのである。それでも自己顕示により社会性の中で、自らの商品価値が拡大すると想像しながら。

 現在、世界の検索を事実上支配しているGAFAの、特にグーグルは、象徴界(言葉)所有してしまうことを目指している。紐づけられた現実界、想像界が、そこから結びつけ、資本主義のシステムに処理され、操作され、または個人の物語が消費されていく。消費された「私」はまた顔を失い、新しい顔を求めて回遊する。その行動に、すべての消費が紐づけられていく。

 中国の故事に、渾沌(こんとん、拼音: húndùn)がある。中国神話に登場する怪物の一つであり、四凶の一つとされ、その名の通り、混沌(カオス)を司る。犬のような姿で長い毛が生えており、爪の無い脚は熊に似ている。目があるが見えず、耳もあるが聞こえない。脚はあるのだが、いつも自分の尻尾を咥えてグルグル回っているだけで前に進むことは無く、空を見ては笑っていたとされる。善人を忌み嫌い、悪人に媚びるという。また別の説では、頭に目、鼻、耳、口の七孔が無く、脚が六本と六枚の翼が生えた姿という説もあるが、荘子いわく、目鼻をつけると死んでしまうそうだ。

 私たちは移動できなくなることにより、さらに混沌に引き込まれ、現実界から遠ざかっていく。官能と暴力の彼岸へと、世界は邁進し、さらなる混沌へと引き込まれていく気がしてしまう。だが、もしAIによる、つまり機械による効率化や管理が、この混沌に道理を持ち込んだらどうだろうか。そこが一番恐ろしい事態かもしれない。

 蓋し、混沌の死と同時に、高度資本主義も絶滅するのだと思う。

 

ジョージ・フロイド氏の無残な死

白人と体制(警察官)がひとりの男を殺した。

確かに犯罪行為が推量される状況だったかもしれない。しかしあの映像が「象徴」的につきつけた事実は、現在も世界に「白人」社会と「近代資本主義国家」が、多大な奴隷の犠牲によってはじまり、またいまもそれが終息していないことだ。

確かに、あの警察官も裕福ではなくサイレントマジョリティーのひとりかもしれない。現在、アメリカの富の格差は著しく、そこにコロナ騒動もあり、もはや数千万の雇用が瞬間に失われ、同時にその影響も関係なく抑圧された人々がいまも大勢いるという事実である。フォーブス誌によると、2018年を見ると、最も裕福な10%が、家計資産合計の70%を所有している。この数値は、1989年には60%だった。トップ1%に流れ込む割合は、1989年の23%から、2018年には32%に跳ね上がっている。2020年も更に加速してるだろう。

奴隷制のはじまりは、1619年8月下旬、ホワイトライオンという名のイギリスの船がアメリカに奴隷を荷下ろし、1662年、バージニア州の議員が奴隷制度を正式に制定した。可決した法律にはこう書かれていた。奴隷となった黒人女性が生んだ子供もまた、全て永遠に奴隷になると宣言され、歴史家のカサンドラ・ニュービー・アレギサンダーは、「奴隷制度はアメリカ経済にとって非常に大きく、非常に重要で、それはアメリカの(他の)産業をすべて足し合わせたものよりも高く評価されるほどでした」と話していたそうだ。つまり新国家アメリカは、奴隷制度とともに発展し、北東部の州であるロードアイランド州の初期の白人議員たちはそれで財をなし、アメリカの新国家は奴隷とともに発展したものの、合衆国の奴隷制度が終了したといわれる1863年以降も、黒人たちの社会的な位置を、「白人」たちは放置した。1960年代のキング牧師の台頭も、暗殺によって中断し、いまでも多くのアフロ・アメリカンは、一部の社会的な成功者(スポーツ、エンターテイメント)を除いては、1980年代~90年代になっても抑圧されている。勿論、一部の成功者の黒人たちは、多少はその恩恵を受けたが、それが眩い光としてメディアで増幅されて広く伝わることの影に、蓋し過去から変わることのない闇が現在も存在している。それはタイガーウッズや、オバマ大統領が誕生しても、まだアメリカのなかには、文化的遺伝子として継承されているのだろう。なぜなら、そもそも黒人は奴隷であり、それが国の富を産み出したからだ。しかし奴隷解放以降は、「白人」社会にとっては、処分できない負債だったのだ。

私たち日本人は、その現実に対して、他国への内政の問題であるから沈黙するべきなのであろうか。それとも、何か声をあげるべきであるのだろうか。私にはその答えはわからない。

それでも現状の著しい世界における富の格差と、同時に「生資本」(消費者)としての価値しかなく、社会的立場も、声もあげることができず、消費社会の船底で生きていくのは、蓋し、近未来の「日本人」も同じことかもしれない。いまや労働は「奴隷」でなく「機械」に。そうであるならば、経済・政治システムにとって無用な民の存在は、「生資本」として以外の価値はないだろう。古いシステムと未来のシステムの狭間で、彼は無残に死んだのだと思う。

冥福を祈りたい。

コロナウイルス後の世界:ボードリヤールの慧眼から現在を読み解く。

終わりのない反射と指数関数的加速。

ジャン・ボードリヤールの慧眼は、テクノロジーが人の自由意思を超えて加速化していく地平を見抜いていた。確かにわたしたちのデジタルネットワークが開始されたのは、それほど昔ではない。二十年前は、まだ場所に固定されたアクセスポイントでしかなかったものが、もはや何十億というモバイル端末にてリアルタイムで結びつけられている。

彼は言う、われわれがもはや(主体的に)行為できる立場にはなく、純粋な反応と反射的操作と自動的な対応しかできない状況です、と。

 今回のコロナウイルスの騒動の発端は、2019年末の中国武漢でのアウトブレイクだった。湖北省武漢にある中国科学院武漢ウイルス研究所は、1956年設立に設立され、いまでは数万種のウイルスの銀行のような機能も持ち、安全レベル4の研究所である。そこから杜撰さから漏れ出したのか、故意に漏れ出したのかはわからない。しかし第7番目のコロナウイルスは、まさにわたしたちが主体として行為できる立場ではなく、「純粋な反応と反射的操作と自動的な対応しかできない状況」とした。

 事態はその前から始まっている。アメリカと中国の対立はイデオロギーの対立ではなく、そこにはかつて人間中心主義を構造主義が放逐した言語(法制度)でなく、反射的操作を加速化させるアルゴリズム(AI)により、世界のヘゲモニーを米中どちらが獲得するかをかけて闘っている。フェースブック、グーグル、アップル対、アリババ、ウエイボー、ファーフェイのような国家に繋がるプラットフォーマー・グローバル企業の艦隊である。

 かつて世界的な金融を牛耳ったロスチャイルド家は、戦争を牛耳り、ロスチャイルド家の援助なしに、戦争を始めることのできる国などヨーロッパには存在しないと、ポーランドのムスカウ侯爵に言わしめたが、そこには巨大資本家の身体が存在した。そこに資本家と労働者の闘争というイデオロギーが創出され、共産主義を通じ、欧州は「自由」を求め、その資本を巡る帝国主義との百年以上の闘争をはじめた。第一次世界大戦、全体主義の台頭、第二次性世界大戦が起こり、制止するために国際連盟、国際連合と、ヨーロッパに資本家による戦争を生み出さない試みを通じ、二十世紀のわりに、欧州はEUという着地点に至った。

 そこまでには偉大な熱量と、欲望と情熱が、人間の身体を通じて、まさに血を流して完了されたのだが、王も、神も、人間も、王座から追放した後に残ったのは、「政治的なものの場面、社会的なものの場面の終わり」だった。「舞台とスペクタクルにより古き疎外状況は消滅し、主体相互の限りない透明化と、情報を前にした出来事の透明化、リアルタイムのコミュニケーションにおける交換の透明化、市場経済の透明化、そしていたるところで生じている悪の透明化等々のために場所を譲った」というボードリヤールが、1995年に発言した内容が、その後加速化したのである。

 「純粋な反応と反射的操作と自動的な対応」は、いまや先に出たプラットフォーマー・グローバル企業の領域である。歴史学者のイスラエル人ユヴァル・ノア・ハラリは言う、政府が市民を監視し、ルールを破った人を罰する方法だ。今、人類史上で初めてテクノロジーを使えば全ての人を常に監視することが可能になった。50年前だったらソ連の国家保安委員会(KGB)であっても、24000万人に上るソ連の全市民を24時間追跡することはできなかったし、そうして収集した全ての情報を効果的に処理することも望むべくもなかった。KGBは人間の工作員や分析官を多く駆使したが、それでも全ての市民に1人ずつ監視役を張り付けて追跡するのはどうしても無理だった。だが今では各国政府は生身のスパイに頼らずとも、至るところに設置したセンサーと強力なアルゴリズムを活用できると。

 透明化は個人のプライバシーも、また権利も、身体も、プラットフォーマーたちが飲み込んでいく。「器官なき身体」が捕獲され、人間では無理だった管理社会が実現される。同時に偉大な熱量と、欲望と情熱が、人間の身体を通じて、まさに血を流して獲得した「自由」が忘却されてしまい、17世紀のルソー以来、ヨーロッパ中心主義から生み出された「人間」は解体され霧散していく。ヒューマニズムは完了したかのように。

 2016年に、欧州連合域外への個人情報の輸出を規制するGDPRが法制化したことや(2018年5月25日から施行)、移民を巡り、UK2016623日の国民投票の結果、投票者の51.9%がEUを離脱することを選択したブリクジットも、その解体の一社会的現象である。同時に、より「透明化」を促進し、膨大なデータ「管理」を推進できるシステムである5Gのネットワークは、中国のファーウエイ社の津波のようなセールスに世界は飲み込まれつつあり、唯一、アメリカ、日本、オーストラリア、また欧州の一部はそれに抗っているのが現況だ。(20204月)

 現在、新型コロナウイルスに、まさにわたしたちは無防備にさらされている。ジョンズ・ホプキンス大の集計によると、世界全体の累積感染者は142万人に上る。42日に世界全体で100万人を超え、1週間で倍増するペースになり、しかも検査自体が高度な技術とリソースを要することからも、インド、アフリカ等の貧しいエリアでは把握すら難しい。

その膨大なリスクは、日本が国家予算を超える対策費を投じても、追いつくかわからない経済的なインパクトもあり、世界はグローバルにおいて新型コロナウイルス(Covid-19)以前の姿には戻らないだろう。さらに「人間」の「自由」のリスクを管理するシステム及びネットワークが台頭し、AIという名の巨大なアルゴリズムのさらなる浸食が不可分になるはずだ。もはや「自由」というのは、二十世紀を回覧したタブローに描かれた、歴史のイメージになってしまうのかもしれない。

免疫関係の病になって

フィッシャー症候群という病気になった。
免疫系が暴走し、神経を破壊していくという病だ。まるで森が野火で焼けるように、からだのなかの神経が焼かれ、その関連する場所への連絡が絶たれ、そのまま麻痺していく。
 はじまりは日曜日の早朝に、視覚の異変を感じてからだった。目覚めて何か眼球を押してしまい歪みが引き起こしているのかと思うが、中々収まる気配がない。視覚の周囲に違和感を感じる程度だったので、そのうちに治るかと一日を過ごした。まだ自動車を運転し、洗車に出かけることが可能だった。だがそれが予兆に過ぎないとは、その時点ではわからなかった。
 翌日、目覚めると、世界は酷くなっていた。柱が交互に交錯する視界が広がり、自宅の螺旋階段が二重になっていて、まるで転落を誘うかのようだ。片目を押さえてみると、視界が通常になるとわかり、仕事を朝一番に済まし、眼科を受診した。眼の異常が急に出るのは、脳のなにかが関係しているというくらいの想像はできたので、脳腫瘍等もあるかもしれないとか想定しながらも、まずは眼科で眼圧等を知るのが良いと思ったからだ。銀座の別院でのMRIの検査もしたところ、脳の血管も正常であり、脳にも梗塞の跡も腫瘍もなかった。しかし副鼻腔炎が酷い状況だと、膿が全体に溜まっているので確認できた。眼科は兎に角神経が安定しない状況で何もできないという。矯正して視覚を治す段階でもないらしい(通常の乱視とはわけがちがうようだ)かかりつけの町医者の耳鼻科に電話をすると、眼に来る状態だったら大変だよ、薬をとにかく飲み続けるように言われ、翌日は良くなるかと思いつつ、眠った。
翌日友人の耳鼻科医に相談する。すると、もし眼にまで至る耳鼻科の症状だとすると、大変危険であり、緊急手術の事態だと言われる。起きて見ると、治るどころか、更にからだの具合も変であり、眼だけでなく、からだが風邪とは違い、ふらつくような感じだった。そして友人の医者も薦める大学病院の耳鼻科を受診したが、その場では耳鼻科の深刻な状況は見つからずも、神経内科を受診することに。
 その翌日大学病院にて神経内科の受診となり、その受診にてはじめて病名の可能性を知らされる。ギランバレー症候群の亜種、フィッシャー症候群の可能性が高いということであり、直ぐ検査の必要があるという。帰宅し翌日に通うことは辛く感じたため、そのまま入院することに。症状が出てから、三日目で正しい入り口に辿り着くことができた。はじめて病院に入院し、髄液検査、血液採取、モニター装着という状況だった。急な入院だったので、免疫系の症候群に罹患してしまい、視覚異常が酷く、万華鏡のよう。月曜日朝急になって、最初脳関係と思いつつも、眼科に。そこから巡っていまは神経内科。検査やなんやら、来週末までは静養しておりますと、友人、仕事関係者には連絡した。片目だとおぼろげながらメールが打てた。
 当初は自分が長患いをするという意識がなかった。医者は二週間でピークが着て回復に向かいますというので、少なくとも大船乗ったように、漫然と安心をしていた。そもそもまだ確定しなかったが、そのフィッシャー症候群とは、視覚障害、麻痺、運動障害の3つの症状が、抗体が神経を引き起こすことによって起きる病である。二十万人に一人が罹患するというような難病であるらしいが、ほぼ完治するので指定はされていないそうだ。しかし経過は至極単調に見えていて、実際は軽いものではなかった。まず足や手の反射がなくなっていく。つまりは足や手が軽く麻痺していくようなもので、まず左手の内側、右手の内側が痺れたように感覚がなくなっていく、その状況でもしゃべりであるとか、顔の動き等には問題がなかったが、右目が下がってきているような感じではあった。(左目でものを見ているからだと僕は判断していたが)
「いーっとしてください」
 いーっとすると口の口角があがる。主治医の女医は、うーとかいーとか顔の動きをチェックし、手や足をかなづちで叩いて反射を確認、歩かせて歩行の安定を観る。最初は普通に歩けたのだが、日を追うごとに歩くのが左へ傾く。そもそも右目の視覚が三十度程度傾いているからと思っていたが、そうでもないみたいだ。
 体温、血圧、脈拍をはかり、日々が過ぎて行く。二十代前半の若い看護婦が日に三回チェックをする。
 
 珍しい病気なので、大学病院の学生等が視察に頻繁にやってきた。病状は進行し、食べることも(麻痺のため)困難になっていった。唇が動かなくなり、顔の筋肉はほぼ麻痺し、表情がなくなった。困難になるのだが、自分はひどく客観的に事態を認識していた。やがて主治医の様子が慌ただしくなり、緊急の治療をすべきだという結論になって、血液製剤の投与となった。身体中の抗体を他人の抗体を大量に投与することで希薄化するのである。自分の免疫が神経を攻撃しているのだから、その連中を少数派にするということなのだろうと理解した。
一日7時間の投与を5日間すると、顔は腫れるし、皮膚には水疱ができる等、つらいものだった。その後看護婦が話してくれたのだが、たまたま顔や手の麻痺であるが、呼吸器が麻痺する場合もあり、その場合は人工呼吸器で長い間過ごすことになってしまう。(病院では呼吸が止まってもモニターでわかるから大丈夫ですと、看護婦は笑っていたが)が、さいわいにそれ以上の悪化は投与によって起きないだろうということで、数週間の入院後退院した。
現在は半年が過ぎて、視界もほぼ元に戻った。ふらつき(運動神経)は、約一ヶ月で元に戻り、麻痺は少々残っている気がするが、他人から見ての顔のお面のような状況や歪みはなくなった。
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他の同じ病気になった方のブログを見て、経験を参照してとても安心できましたので、体験を書いてみました。特に、他山の石として、不可思議な病と感じたら、すぐに大きな病院に行くべきと知っていただければ幸い。難病になると様々な民間療法等を周りから勧められますが、現代医学の他は、気持ち良いマッサージのようなものですので、回り道はしませんように。
 

「情報」と「言葉」の錯誤の果てに

僕自身も深く仕事では関わっているけれども、膨大なデジタル「情報」はその果てに、「死のメディア」になりうる警鐘を鳴らしたい。
 いくらメディアの多様性や未来性を論じたところでも、「情報」と「言葉」とは同じではない。「情報」は「言葉」等を置換したものも含まれるが、「言葉」は生きた人間の発した声、または記録とての文字である。「言葉」は人間が作り出したものであるが、常に生きている。しかし一方「情報」は生きたものではない。「情報」は電子機器の中でも動作するけれども、「言葉」はかつて生きた人たちが産み出した魂のバトンだ。
「情報」は生きていない装置にも宿るが、「言葉」は決して生きている主体の外には存在しない。なぜなら、「火」というものは、「熱さ」を含有する事はない。つまり「火」に触れた主体の経験があってはじめて、「熱さ」が存在し、その「言葉」があるのである。デカルトを援用するならば、「火」の延長には「熱さ」は存在しない。「熱さ」とは生きた魂=主体の痕跡なのである。
 蓋し現在人を惑わす危険な「道具」は主体をイミテーションした存在である。具体的にはSiriのような道具は、あたかもその向こう側に主体がいるような錯覚を産み出すが、それは人間が人形に自己を投影し、反射している影に過ぎない。しかしまるで生きていたり、全能のように錯覚する先には、恐ろしい危険が満ちている。
 世間で言う「ディープ・ラーニング」は、膨大なWEB空間のその先には人間が書いたり、または発した「言葉」が満ちていると思い、それをまとめた「集合知」を参照しているのだと、多分想定しているのだろう。しかしそこには明快なプロトコルが介在し、操作している。結果(世界に平均的な人間は一人も生きていないように)主体のない「道具」が計算した結果に過ぎないのである。しかし人は、「言葉」を主体の示顕であると見なしてしまう。私たちは「生きていない主体」が発する死の深奥から沸き出す声に耳を貸してしまっているのだ。空虚の中に存在する幻聴である。
 「情報」は「言葉」ではないと理解し、あまりにも「道具」が人間の振りをする事態には、慎重でなくてはならない。過信した果てには、「ラジオ」が産み出したファシズム以上の惨禍が引き起こされる芽が潜んでいると思う。人形の吹くラッパに、殺し合いが起きる可能性があるからだ。
「生」は記録できない。また至極便利なものでもない。日々一回性のなかに、私たちは存在しているのだという、本質を見失う事こそ恐ろしい。

佐野氏の謝罪姿勢に関する妙な違和感

 世間を騒がしている、パクリ騒動についていろいろ考えてみる。
 そもそも一度身体を濾過した表現は、贋作つくるつもりで意識的にやらないかぎりは、中々パクリとはならない。20世紀の最後の数年に、多くのデザイナーも、コピーライターも、肉体性を捨て始め、作業が電子化し、ソフトウェアのプラットフォームで仕事をするようになり、多くの仕事は参照とアレンジの効率化になっていったと思う。スピードも早くなり、制作に費やす時間も、思考も、相対的に低くなる一方で、アウトプットばかりが求められるようになった。それに従ってプロの仕事と素人仕事の境目を、理解できる人が少なくなった感がある。
 作る側は、本来は考え方からはじまりアウトプットに至るプロセスで進むが、アウトプットからアウトプットを想像する、すなわちプリコラージュ(器用仕事)が、より重宝されるようになった。(勿論デジタル以前からあったが)つまりファッションデザイナーに対するスタイリストであり、音楽家におけるアレンジャーのような存在が台頭し、ツールの高度化によってアウトプットがプロレベルと一般的には差を見つけにくくなり、その商品価値も高まったからだと思う。
 またさまざまなICTツールのコモディティ化とともに、世間では権利の登録に関する意識ばかりが増大した。同時に、制作側の論理など知らずに、無料で膨大なアウトプットを享受できる時代になり、情報に関するリテラシーは飛躍的に高まった。
 そもそも日本には、本歌どりや、引用を用いて表現を産み出す伝統というものがある。その感性は、表現を個人に帰する登録というものではなく、文化の共有者に対する寛容さに基づく。しかし忘れてならないのは、元の表現者に対する尊敬の念があることだ。それはフランス語ではオマージュというのに近いかもしれない。そういう意味では、表現物=アウトプットを人から切り離し、まるでモノのように扱う人の品位が引き起こしている問題だと、一連の事柄を理解できるかもしれない。
 
 そこを鑑みると、佐野氏は、登録を侵害した不手際には謝罪の意を評したが、表現をモノ化していることについては、もしかするとネットに落ちている程度の作者に対しては、オマージュの意識はないのではないか。ただモノを拾ったとしか感じていないのではないか。
 
 多弁が過ぎた最後につけ加えるならば、多摩美であるとか、日本のグラフィック業界であるのか、そこには閉鎖的な村があり、村人以外を「人」とは考えないのではないか。ザハ女史の建築の問題でも露見した日本の非グローバル性が、オリンピックというグローバルイベントによりあぶり出されつつあるのかもしれない。
 
 

シテ友枝雄人能 『杜若 (かきつばた)』を観る。

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肌寒く雨の舞う渋谷の雑踏を抜け、東急セルリアンタワーホテルにある能楽堂へ。横には料亭である金田中が店を構えており、能楽堂があるとは、なかなか想像できない場所だ。その晩は、喜多流のシテである友枝雄人が『杜若』を舞った。
『杜若』の舞台は、中世の三河の国(愛知県)。在原業平をモデルにしたと言われる『伊勢物語』を下敷きにして、業平が歌ったというかきつばたの歌「からころも(唐衣)き(着)つつ馴れにしつま(妻)しあればはるばる(遥々)きぬるたび(旅)をしぞ思ふ」と旅の心を詠んだ故事を軸に、杜若の精霊である女のおぼろげな、ゆらぐ詩情が時空を織り込むように展開していく。
物語の展開はダイナミックではなく、登場するのも僧のツレ(助演者)のみである。寒空の二月の東京にいる私が舞いを眺めているうちに、次第に初夏のかきつばたが群生したという中世の八つ橋にいるようなこころもちになっていく。緩やかでありながらも、飽きさせることのないお能である。
能舞台という装置は、いつも彼方に忘れてしまっていた過去に、観客を誘う。同じシテの友枝氏は、来月同じ場所で今度は『隅田川』を舞うそうだ。(人買いから子供を取り返そうとする母親の話である)
来月も、ぜひ観ようと思う。
能の魅力を知る-遠くも来ぬるものかな 梅若忌-
   
開演時間    2015年3月15日(日)
(開場時間) 午後1時00分 (12時30分開場)
演目・出演
おはなし 金子直樹
狂言「宗論」
能「隅田川」梅若丸の母 友枝雄人 (午後3時50分終演予定)
料金
S(正面)席 8,500円
A(脇正面)席 7,000円
B(中正面)席 5,500円
学生(座敷・自由)席 3,500円
※学生席は能楽堂でのみ取り扱います。購入の際に学生証の提示をお願いいたします。

アポフィス (99942 Apophis) 世界は一元化した「共通言語」で人の魂を救済できるのであろうか。

現在は過去の文化の複製を生み出し、そこに文化を感じていることで危うげに結びついている。多様であった文化は、「共通言語」として一元化されていく方向を進んでいる。世界は一元化した「共通言語」で人の魂を救済できるのであろうか。
メディアの技術は「共通言語」を生み出し、世界の知識を一元化しつつある。しかし共通言語は幸せをもたらすのかどうかは分からない。「共通言語」の間で魂は凍りつくかもしれないし、結びつくはずの糸が解けていくきっかけになるのかもしれない。それでも技術は世界を結びつけ、人の魂を浚っていく。蟹の群れを底引き網が根こそぎ浚っていってしまうように。それでも人の魂は、海底に潜む蟹のようにしか生きていけない。
紙はかつて人々の魂に大胆な変化をもたらした。それまでの人は紙によって、別の空間、時間からやって来る他の人の言葉を知らなかった。言葉は人の口から出で、人の耳に入るものでしかなかった。息、体温、その場の空気というノイズとともに、言葉は語られるだけであり、同時の空間の中で紡ぎだされるものでしかなかった。物語も知識も、人の口から膨大な周辺の情報と共に伝えられ、それを人は理解し、その周辺情報の残滓から文化が育成された。神話、方言、さまざまな所作は、そういうノイズを包含しながら真髄であるところの意味を醸成して来たのである。
 
無駄がなくては文化が出来ないと言う真意は、つまりはそういうところにある。酒が菌による醗酵によって生み出されるように、文化は不純物によって醗酵出来る。つまり、余りにも有機的なものなのである。だからこそ、文化は宿木であるところの、人を決して出ることができない。宿木が失われればその文化は死んでしまう。
周囲に存在する人は、文化の伝承者として尊敬され、社会的な位置づけを帯びていた。勿論すべてが優秀な伝承者であったわけではない。副産物として迷信が生まれ、無知蒙昧な人々となっていたことも否めない。十八世紀以降の「文化人」たちは、啓蒙(エンライトメント=光を当てるという英語の方が分かりやすい)と称して市民社会を生み出そうとした昔の人々は、そういう不純物に目をつけて浚っていった。次第に宿木は倒され、無知の別称と共に排斥されて来たのが、つまり近代である。マルクスが自然から疎外された存在としての人間を発見できたのも、まさにそういう現実が顕在化しつつあるのを目の当たりにしたからだろう。
 グーテンベルグの印刷機の発明も、紙の大量生産も、文化の神話性を貶める役割を帯び、やがて写真、映画、音響装置の発明が拍車をかけてきた。テレビとインターネットがあまねく普及した(つまりユビキタスある)現代の市民社会はそういう文化の磨耗のある極点となっている。これは地球温暖化よりも深刻な問題であり、人の生きる意味に関わる問題である。(日本の自殺者の急増も、蓋し文化の崩壊と深刻な関わりがある。)
勿論現在も、企業文化等、「文化」という言葉は周囲に満ちている。しかしその「文化」という言葉は文化のメタファーでしかない。「共通言語」は、政治的な思惑とシンクロナイズし、つまりデファクト化した知性として、最後の砦である言語の障壁をクリアしようと目論んでいる。これも技術の進歩で早晩実現するかもしれない。
そこには不純物は存在しない。純粋な水で生物が死に絶えるようにすべての魂は死に絶えるだろう。その先に残るものは、ゾンビとなった人に過ぎないのではないか。ゾンビにも欲望はあるのだろうか。そこは平準化した死=最大化されたエントロピーが満ち満ちた静かな地獄であるにちがいない。
ネットワークを完璧に破壊する存在以外に「魂」を救える救済者はいない。キリストは再度降臨するだろうか。
 

アポフィス (99942 Apophis) は、アテン群に属する地球近傍小惑星の一つ。2004年6月に発見された。地球軌道のすぐ外側から金星軌道付近までの楕円軌道を323日かけて公転している。
アポフィスという名は古代エジプトの悪神アペプ(ギリシア語でアポピス、ラテン語でアポフィス)に由来する。
2004年12月、まだ2004 MN4という仮符号で呼ばれていたこの小惑星が2029年に地球と衝突するかもしれないと報道され、一時話題になった。その後、少なくとも2029年の接近では衝突しないことが判明している。

核事故の現況:なぜ民主党が収束宣言を野田内閣にて出したのか

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日経新聞の夕刊に掲載された小さな記事。されど真実は重し。なぜ民主党が収束宣言を野田内閣にて出したのかについては、なぜか日本のジャーナリズムは分析も、批評もなし。収賄やら、枝葉末節の選挙違反等しか追わず。今なお溶け出している核燃料のみが事実であり、その他は果てしなく軽い。
(引用:とはサーチより)
ベクレルをシーベルトに換算するには、人体が摂取した放射能の量(ベクレル)に放射性核種それぞれに用意されている実効線量係数という値を掛けて導きます。さらに、経口摂取(食べる場合)と吸入摂取(呼吸で肺に取り込んだ場合)とでも実効線量係数は異なり、例えば1㎏あたり100ベクレルのセシウム137を飲食した場合には以下の様な計算になります。
100Bq/㎏×0.013μSv/Bq =1.3μSv
さらにこれを1年間摂取し続けると、
1.3μSv×365 = 474.5μSv
となります。
簡単な計算によると、1リットル摂取した場合、(排出がないとしたら)1日当たり16900ミリシーベルトもの被ばくをする。もちろん、量の問題があるので海洋に出ても莫大な水量によって希釈されるだろうが、それでも事実はきちんと認識し、責任の所在は明瞭にしなくてはせっかく活発化した原発に関する議論も、元の黙阿弥である。