村上春樹をめぐる欠落した身体、または余剰な身体をめぐる物語。
『風の歌を訊け』には、欠落した身体の象徴として「小指のない女の子」が現れ、このたびの新作『色彩のない多崎つくると巡礼の年』においては、過剰な身体として「6本指」の逸話が登場する。そのどちらも自然ではなく、奇形である。しかし存在しない小指ではなく、切断できるし、また優性遺伝でもある奇形である。その欠落でない不具に関する物語が、主要なテーマである。たいていの場合は、機能しない段階で親が切除する指である。
その6本の「指」に呼応するように、ちょうど登場人物が、高校時代の時間面にアオ、アカ、シロ、クロ、そして「つくる」の5人。そこに大学時代には「灰田」、三十六歳の現在に「緑川」という別の時間面に登場する2人が現れる。
余剰の指をめぐる認識が、つねに主人公である「つくる」のアイディティを揺さぶる指標となっていく。6本目の指を持った女は、電話帳のような分厚い交響曲をつくるに弾かせ、また哲学者である灰田の父に死の重荷を悟らせたジャズピアニストに、かつて存在したかもしれない6本指のイメージを帯びさせる。
身体の欠落は人の関心を引き寄せる。小指のない女の子しかり。しかし過剰な指は切断される。1979年には欠落を物語り、2013年には過剰を物語る。その過剰が死を考えてばかりいた「つくる」ではなく、「シロ」と確定するのは落ちを晒すようなものだけれども。
過剰な存在とは、小指の女の子の持つセクシーさではなく、ま逆にあるシロの孤独な死であることに、村上春樹の「老い」を想う。
アントニオ・ネグリ氏の講演を拝聴し、やがて姜氏を応援する。
『<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』により、世界的に注目された哲学者であり、左翼運動家であるアントニオ・ネグリ氏が初来日した。さまざまな思惑で招聘されたのだろうが、その事情については詳細を知らない。が、国際文化会館にて「マルチチュードと権力:3.11後の世界」という題目で講演があり、USTREAMでも配信され、生の声を聞く機会を得た。
事件を起こし、収監され、アメリカにも入国できないという人物だとあったので、どういう人かと思ってみたが、印象はイタリア人らしい鷹揚さがある左翼だった。プラダのオーナーデザイナーであっても、左翼であった国である。昔、赤い旅団に気をつけろと子供の頃、ミラノでも脅されたのを思い出す。
余談はさておき、元国連事務次長の明石氏と、姜尚中氏が挨拶をし、その後ネグリ氏が登壇した。
まずタイトルもそうだが、3.11を政治的なキーワードにしようとする意味は、そのそも私にはよくわからない。災害は歴史的な事件を引き起こす事由ではあるが、歴史ではない。人間の意思の導かぬものを政治的な象徴として扱う魂胆が、そもそも日本の政治風土というか、政治ジャーナリズムの卑小なところというか、つまりは教養のなさである。日本は奇妙だと思う。
同様ネグリ氏も、災害についてのお悔やみは述べたが、そこが政治的な問題のコアとはまったく話していなかった。(フランス語での講演だった)
まず講演のサマリーを書くとすると、前提として、労働が世界で変容し、物理的な労働から認知的な労働に変化し、グローバリゼーションが一般化した。(つまりは知本主義になりつつあり、オフショアで労働分業されるようになり、過去のハイテクがコモディティ化している現状を思うといい)特にアメリカがイラク戦争とともに衰退し、同時に社会民主主義も無力化した。その世界において、1)欧州における危機(EUの危機、金融の課題)2)ラテンアメリカの台頭 3)太平洋(西太平洋)をめぐるアメリカ、中国の覇権争い。その3つをテーマとして挙げた。
特に欧州においてネグリ氏が述べていた事は、まさに「国民国家」は左翼のフェティシズムとなり、資本家は「国民国家」ではなく、国境を超えている=グローバル化していると、(もはやEUは国家をこえているが)そのなかで政治的な労働者階級の運動が無意味化しているという現実。
個人的な経験からも、実際に欧州の現状は、旧植民地の人々が物理的な旧来の労働力から、資本を持ったり、認知的な労働に従事し、植民地の出身の上司、または会社オーナーが国の根幹を支えているのも事実である。しかも金融も、労働力も国境をを超えている。多分、この状況は、日本で学者や官僚をやっている人には実感できないだろうと思う。ネグリ氏がいうような認知的な労働をする会社は、インド資本で、レバノン人が社長で、英国人が経理をし、ポーランド人が企画をし、オランダ人が営業をし、マーケットは欧州と中東というイメージ。しかも仕事のワークスタイルもWEBによるネットワークで変化しているので、正規社員が少ないし、別に日本のようにそれを問題視することもない。
ラテンアメリカは、ブラジルとアルゼンチンの台頭、そのなかで民族主義に移行する力もあるが、決して古い体制には戻らないとネグリ氏は述べる。そもそも南米はスペイン人に歴史を粉砕されてしまっているので、そもそも欧州の亜流のようなところがある。
そして太平洋(姜氏は東アジアの中韓日と還元したが)は、西太平洋が新しいフロンティアとしてアメリカが偏在し、また欧州、南米、また中東から力をシフトしているとネグリ氏は述べる。それは現在のアメリカの先端は、西海岸の情報産業であることもあるし、いわゆる世界の軸が、かつてはジェノバ、ロンドン、ニューヨーク、そして今は西海岸だという現実だろう。ナショナリズム、覇権主義が台頭する中国との向き合いがどうなるか。ネグリ氏は、中国に対する米国の地政学的なチャレンジがあり、中国に対する不信をベースに、太平洋がどうリバランスされるかという、とても難しい問題と言っていた。
話はとても面白くグローバルだったが、一部の左翼運動家の方々には、なにかにネグリ氏のお墨付きをもらいたいというのが強くあり、閉口した。
対談にて姜氏は、主権者の25%しか自民党に入れていないのだから、あれは国民の意思とはかけ離れているとか言い出し、じゃあ民主党政権も同じだったろと思うが、それはさておき、どうしてこういう政治的アジテートを許すのかが、しかも東大の看板背負ってと、言論空間の質の低さと言うか、政治工作し放題の現状には、まさに日本は自由な国なんだと痛感した。
それでもナショナリズムの高まりがとか連呼し、しまいには反原発、反ナショナリズムですよねとか、ネグリ氏が話している言葉じりから還元した始末。そりゃ、中国、朝鮮が民主的であり、自由な政治風土をもつ、ネットワーク化された国々になってたら、反ナショナリズムもそうだと思うが、反原発はそもそも技術の話であり、そこを核とか政治的なアジテーションの力技に持ち込もうとするのも(いつでも核爆弾作れるからと)知性の瓦解と言わざる得ない。
ネグリ氏の講演を聞いたつもりが、最後に残ったのは、姜さん、日本で吠えていないで、母国、そして中国でがんばってください。心から応援しますから、という気持ちだった。
日本人にとって愛国とは、破壊や暴動ではなく、矜恃である。
愛国の心情を思い、歌を引用する。
おほきみの御稜威輝く日の本に狂業するな癡の漢人(平賀元義)
天皇の御稜威のかがやく皇國にむかつて、何のふざけた眞似をするか、承知をせぬぞ、癡呆の外國人どもよ、といふ意味である。萬葉集に、『いざ子ども狂業(たはわざ)なせそ天地(あめつち)のかためし國ぞ大和島根は』があつて、狂業(たはわざ)の語が入つて居る。/斉藤茂吉 愛国歌小観より。
2004/9/2 断章
倒錯的な性格ではないから、自殺する人を勝者だとは考えない。それでも世界には偉人にも自殺する人はあり、日本に至っては自死の美学もある。人はなぜ自らを滅するのだろう。第二次世界大戦で死んだ人が日本人で三百万人余りあるというが、それは丁度百年で自殺する人と同じであるらしい。つまりは日常も、百年をかけて緩やかな戦争をしているようなものである。
三島由紀夫、ロラン・バルト、川端康成、ミッシェル・フーコー、ジル・ドルーズ。自殺した文学者は多い。増大する自我の圧力が、存在する力を押し潰してしまうのだろうか。政治的な圧力で死ぬものもいるし、経済的な理由で死ぬものもある。しかし多くの場合、個人にとっての自殺は、自意識の消失点なのではないだろうかと、私は想像する。
過酷な土地に生きるものが常に存在する力を問われているとしたら、安寧のなかに生きる者は蓋し存在する力を問われない。想像する余力のある生活は羨望されると同時に、ある種の生き地獄のはじまりである。存在する力が限りなく弱いなら、自意識を知った瞬間に死んでしまうだろう。
自意識とは、限りない孤独の別名である。そこが思索の出発点であり、見えない他者を探していくプロセスのはじまりである。私はその他の誰でもなく、物でもなく、唯ここにあることの触覚である。その地点に留まり、生きていくことは難しい。
社会的なゲームのなかに身を投じていくことで私たちはひとつのピースとなり、大きな総体を築いていく物となり、自意識を忘れていく。また貨幣の力を信じている人が、自意識に潰されることはない。貨幣を稼いでいく限りは、正しい存在である。
自意識は魔物であり、甘美な誇りという毒で身体を蝕んでいく。時折魔物は身体を去り、やがて舞い戻る。常に働き、身体の力を高めて自意識を追い払うことこそ、唯一の対症法である。働かざるもの、食うべからずとは禅の言葉であるが、そういう暮らしに魔物は存在しない。怠惰、強欲、等、キリスト教のいう七つの大罪こそは、まさに魔物の好物である。
ロンドン滞在にて日本の現況を憂う。
5−6年振りにロンドンに滞在している。
街を歩いていて思うのは、勿論ユーロ圏ではないけれど、欧州経済危機に日本がIMFに金を出すなんてバタバタしているのが無縁に感じる程、別の次元で好況のような気がする。同じような感覚は昨年の韓国でも感じた。日本の現状と一体何がちがうのだろうかと思うと、それは「グローバル」であるという事実だ。
金持ちのインド人、アラブ人が街に溢れ、白人の若者がシュラフに包まりホームレスになっている現実を、国民が普通に受け入れるということだ。ナイトブリッジの高級コンドミニアムが1500平米で100億円以上の価格であったり、5億円の不動産が普通にある都市だ。日本人だと格差だとか叫んでしまい、まったく感情的な閉塞感に陥るのではないだろうか。日本のジャーナリズムに問題があるのかもしれない。
国、人種、宗教に関わらず、機会の平等があり、法人の自由が保障されている都市や国でないと、もはや「グローバル」はならないだろう。少なくとも言語という障壁が日本にはあるのだ。
そこを国家が戦略的に使う事が出来れば(国益となる人材、富裕層の外国人は受け入れる等、企業の法人税をさげる等)消費税をあげたとしても,日本はもっと活況になり得るだろう。
原子力発電の事故、状況、様々なコミットメント。
3月11日以降の6ヶ月間、特に東日本に住まう人々には、生活と潜在するリスクについて深く、また人生のなかにおける自分の立ち位置を検証する時間だったと思う。仕事、家族、生活等、1980年代以降に発展したメディア主導型の消費謳歌社会が、決定的な問い直しを受けた。その最大の理由は、言うまでもなく『福島第一原発事故』だった。
地震当初は、津波の被災エリアの決定的なダメージから、しばらくは原発の話はプライオリティに語ることが難しかった。が、時間が経つにつれ、さまざまな側面が露呈し、特に情報の開示については、電力村=電力マフィアと称される体質が糾弾された。しかし同様の体質は、日本中の何処にでも存在しているし、また鏡の中の自分に腹をたてるような、気持ち悪さがそこにある。まったくの外部にいる日本人はないし、あくまで内部からの闘争を行わなくては嘘である。
私は6月某日に、遠藤 哲也 (元IAEA理事会議長/元原子力委員会委員長代理)の講演を聞いてきた。元国連の明石 康氏が主催された原発問題を考察するイベントの「福島原発事故の影響~原発事故に国境なし」と題した講演だった。遠藤氏の講演は、まだ6月という異様な状況が現在ほども冷めやらない時だったこともあり、率直に語っていたという印象だった。あくまで外務省出身ということもあり、コミュニケーションの問題として原発を語り、技術的な問題については、専門家ではないが、中核にいた人間ならではの知見を感じた。
●原子力の問題は、天災で起きたが、その後の対応を含めては人災でもある。特に組織の在り方。
●10万マイクロシーベルト以下の低量放射線での人体の影響は、諸説をさまざまな立場の専門家(医師、技術者等)から聞いてきたが、悪いともいいともいえない。数字化=科学的な根拠がない。
●原子力の見直しは議論すべきだが、エネルギーの安全保障上の問題は重要な問題だ。
遠藤氏のポイントは、私がその後様々な専門家、関係者、つまり原子力を巡る様々なプレイヤーを理解していく足場となった。
人体への影響がどうなるかという議論については、今後の臨床的なデータの蓄積もあるし、内部被ばくを軽減するための人的及び官民一体の努力次第であるので、未だわからない話だ。但し、結局は責任のなすり合いにより現実的に存在している危機(特に高放射線の地域)にて、対策の不備は否めない。今なお続いている人災の側面からの可能性のある健康被害(特に放射能の受容性の高い子供たち)については緊急の対策をするべきである。そういう意味で、以下の課題解決は急務だ。
●潜在する危機に対するアクション(児童の疎開等)
●現在稼働または停止している原子力発電所における大規模事故のシュミレーション
●閉鎖している炭鉱の再稼働を含め、エネルギー安全保障体制の再構築
様々な利権を含む私たちの問題である側面がある。すべてを単純な経済状況とのトレードオフだけではなく、現在の政治がしなくてはならないのは、未来志向の課題解決だ。少なくとも半世紀のスパンの計画をつくるべきだ。民主党とか、自民党の次元ではなく、私たち全てがコミットメントするべき問題だという状況であることは、少なくとも東日本の人間は骨身に沁みている。
技術を捨てるという議論はあり得ない。必要が有る限り技術を人が抹消することはできない。核というパンドラの箱は既に開いてから半世紀以上継続している現実であり、冷戦後の私たちも莫大なコストを払い続けるという事態は不変だ。全廃を求めるだけの反原発運動はその意味では空論であり、いかに私たちがその技術とのスタンスを決定するための議論と、リーダーが不可欠なのだ。
兎に角、目を瞑る時ではない。
東日本大地震に。
人は、人を通じてしか、世界に触れられない。
だから世界の事象に人の名前をつけたがる。いうまでもなく、世界には人が介在しない事象もある。それを神と名づけてしまうのも、人が脆弱な存在である所以だ。
大地震のさなかで津波に飲み込まれ、または土砂に流され命を失った人々に祈りを捧げる。また辛い状況にさらされている被災者の無事を願う。
現在も危機にさらされている、勿論僕の家族を含んだ、東北・関東のひとびとは、やはり人の繋がりのなかに救いを求めていく。様々な流言、また停電、インフラの崩壊によるストレスを持った人々が、言葉を通じて人に及ぼして行くのは、善ばかりではない。インターネットというかつて存在しなかったインフラは、僕は特にツイッターを読んでいたが、僕がフォローしている限りでは、皆冷静で、また愛情に溢れていた人々だと思う。それでも、自分を含めて様々な流言に惑うし、また善かれと思って、嘘を流す人も少なくなかった。
政治家、特に首相は東京電力のマネージメントを罵倒したらしいが、皆は政府を罵倒したいだろう。それが無益なことは誰もが分かっているのに、人を責めようとする。日本のメディアの一部、また社民党の福島瑞穂代表は、電力の配布を地域単位でするべきではなく、病院等に細分化し、コントロールすべきだとか、また「友愛」で日米関係を壊した視点と同じ空論をほざき、現に懸命にやっている人々を間接的に愚弄している。もう人を責めるのをやめよう。石原首相は日本人の我欲に対する天罰と言ったそうだが、さすがに「天罰」というのは辛い。
僕は神の試練だと思う。僕らは脆弱な存在だ。だからこそ、僕らはきっと乗り越えて、次の地平に立つのだと深く信じている。
オープンリソースの行方は?中国のアンドロイド端末とグーグル。
CESには、多数の中国メーカーが米グーグルの基本ソフト(OS)「アンドロイド」を使うタブレット端末を出展した。ただ、中小メーカーの中には独自の仕様変更を加えすぎ、グーグルから非公認のものも少なくないとみられ、会場では「独自の進化を遂げるのでは」(日本メーカー)と“ガラパゴス化”を指摘する声が上がっている。
CESには、中国からレノボや華為技術(ファーウェイ)、「愛国者」のブランドで知られる愛国者数碼科技(アイゴ・デジタル・テクノロジー)などの大手に加え、まだ無名の中小・ベンチャーも10社超が出展。
中にはアンドロイドOS搭載端末が利用可能なグーグルのソフト配信サービス「アンドロイドマーケット」に未対応の端末も複数あった。アンドロイドは、メーカーが無償で自由に利用できるのが特徴だが「あまりに独自の仕様変更を勝手にしすぎると、グーグルが公式サービスの利用を認めないケースもある」(国内メーカー)という。
アンドロイドマーケットに対応していないタブレット端末を出展したボアイ(深セン市)の担当者は「公式サービスが使えなくても中国企業の同様のサービスが使えるので、利用者には不便はない」と強調した。(三塚聖平)フジサンケイ ビジネスアイ 1月11日(火)8時15分配信http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110110-00000007-fsi-bus_all
新年早々、さすが中国は面白い話題を提供してくれます。
グーグルはまたもや中国とトラブルを抱えつつあるのでしょうか?やはり、オープンリソースというキリスト教&民主主義世界のパラダイムに対し、やはり東アジアはひと味違うのでしょうか。日本という官僚主義バリバリの統制技術国と、共産主義風重商&個人主義者の巣窟である中国という、まさになんというか、21世紀の新たな世界像が示されつつあるのかなと思います。
知本主義の社会が到来するということは、どういう社会を実現したいのかというヴィジョンと不可分な関係性があります。資源、工業製品よりも観念の共有化が財になるという時代なのだから、その絵を描いている西欧の支配層からすると、東アジアは読みにくいでしょう。資源、国力の衰えを、今更宗教ではどうにもならないから、エコとか新しいパラダイムを想定しつつも、お盆をひっくり返され、唯一敗戦国&西欧コンプレックス支配層(欧米留学して洗脳された)がいる日本ばかりが、有り難がってる。それに対し、中国人はアナーキーです。
みんなが育てて、その果実を皆が食べ、自分はその樹の賃料で商売を使用というオープンリソース的な考え方など、中国人は樹までも焼いてしまう勢いです。よく日本の有識者とか称するTV文化人が、中国はそのうち知材の有り難さが身にしみるとか言っていますが、そういう有識者は官僚主義的利益を得てる層ばかり。下手をすると、中国人に椅子まで食われてしまうんじゃないかと、新年早々まんざら冗談も嘘でもないような気がしています。 tokyotaro
海賊版電子書籍販売を巡る、著作権管理はどうするべきか。
読売新聞 12月14日(火)10時32分配信
米アップルのソフト配信サイト「アップストア」で村上春樹さんらの小説の海賊版電子書籍が売られていた問題で、日本書籍出版協会(書協)など出版関連4団体は14日、「明白な著作権侵害が横行している」と同社に抗議する声明を出した。
また、改善策を求めるための協議を申し入れる文書を同日、アップルジャパンに送った。
声明は書協と日本雑誌協会、日本電子書籍出版社協会、デジタルコミック協議会の連名。村上さんや東野圭吾さんの小説だけでなく、「違法に電子化された大量のコミックスを自由に閲覧できる」ソフトが配信されていると指摘し、「著作権侵害物を配信することは違法行為の幇助(ほうじょ)」と強く非難している。著者や出版社が海賊版の削除を求める際の窓口や手順が明示されていないことについても、早急な情報開示を求めている。
これに対し、アップルジャパンは「声明を見ておらず、コメントできない。著作権侵害の申し出を受けた際は速やかに適切に対処する」としている。 最終更新:12月14日(火)10時32分
アップル社のアプリストアで、村上春樹の小説も電子化されたのかと見ると、真っ赤な海賊版だった。中国人が制作したものらしく、粗悪な代物らしい。コメント欄にも書き込みが多く、少なくともコメントに偽物等書かれた場合の、自動警告システム、また調査するスキームが機能しているのかが疑わしい。ベストセラーに村上氏の小説が長らく掲出されたいたのだから、多分監督もしていないのだろう。
確かにデジタルの著作物を管理するシステムは開発途上である。が、いくつか実用化されているシステムもあるし、電通、ソニー等が特許を既に取得しているそうだ。しかし、まだ運用に組み込むことが法制化されてはいないし、今後拡大するモバイル等のマーケットは、まだコスト化する姿勢が明確でない。
個人的には、電子書籍はプラットフォームも拡充し、益々発展するのは自明だと思う。しかしインターネットをベースとしているので、法的な枠組みの整備していくのは難しいだろう。そういう意味では、中国圏等、海賊版の横行する「山塞」大国からの参入には、格差をつけても”性悪説”的に対応していくべきと思う。
タイガー・ウッズは復活するのだろうか。
圧倒的な強さはもう戻らないのか。不倫騒動と離婚に揺れたタイガー・ウッズ(米国)は今季、1996年のプロ転向後では初めてツアーで1勝もできずに終わった。かつて手術を受けた左膝の負担を軽くするようスイングも改造しているが、完全復活は遠そうだ。
11月、米誌ニューズウィーク(電子版)に寄せたエッセー。「交通事故による体の傷は癒えても、心の痛みはより複雑なもので落ち着かない。生活のバランスを欠き、過ちから学ぶ苦しみが続いている」と書いた。正直な反省の表れとも取れるが、ツアーの賞金増額などプロゴルフの市場規模拡大にも貢献してきたスーパースターには、不似合いな弱音にも映る。
ゴルフは精神状態や性格がよく出る。5年余り世界ランキング1位に君臨し、抜群の実力で着々とスコアを伸ばすウッズに対し、優勝を争うライバルがミスなどで自滅していく場面が、かつては目立った。しかし、一連の騒動とその後の不振で、王者のオーラは消えた。スイング改造で技術は復調しても、他の選手が「ウッズ恐るるに足らず」と思えば、騒動前のようにはいかないだろう。
昨年8月の全米プロ選手権。ウッズはY・E・ヤン(韓国)に栄冠をさらわれた。メジャー大会で、単独首位か首位タイで最終日を迎えながら優勝を逃したのは初めてだった。3カ月後、不倫騒動が発覚。全米プロの敗北は、暗転の予兆だったのか。家族を裏切る行為を陰で重ねた報いに、第一人者は気付いていなかった。
[時事通信社]
偉大なゴルファーであっても、人生のスコアが崩れることはあるだろう。あのウッズであっても、1勝も出来なかったのかと凋落を憂う一方、凄まじいバッシングの状況であそこまでのプレーが出来たという見方もある。精神面の激しく反映するプロレベルのゴルフが出来ること自体驚愕であると、プレーをしたことがある人だったら、誰でも納得することだ。いろいろ契約もあるのだろうが、シーズン休んだ方が良かったかとも思う。
とにかく、もう一度素晴らしいプレイを見せつけてくれるだろうと、ファンとしては来年に期待したい。
