「情報」と「言葉」の錯誤の果てに

僕自身も深く仕事では関わっているけれども、膨大なデジタル「情報」はその果てに、「死のメディア」になりうる警鐘を鳴らしたい。
 いくらメディアの多様性や未来性を論じたところでも、「情報」と「言葉」とは同じではない。「情報」は「言葉」等を置換したものも含まれるが、「言葉」は生きた人間の発した声、または記録とての文字である。「言葉」は人間が作り出したものであるが、常に生きている。しかし一方「情報」は生きたものではない。「情報」は電子機器の中でも動作するけれども、「言葉」はかつて生きた人たちが産み出した魂のバトンだ。
「情報」は生きていない装置にも宿るが、「言葉」は決して生きている主体の外には存在しない。なぜなら、「火」というものは、「熱さ」を含有する事はない。つまり「火」に触れた主体の経験があってはじめて、「熱さ」が存在し、その「言葉」があるのである。デカルトを援用するならば、「火」の延長には「熱さ」は存在しない。「熱さ」とは生きた魂=主体の痕跡なのである。
 蓋し現在人を惑わす危険な「道具」は主体をイミテーションした存在である。具体的にはSiriのような道具は、あたかもその向こう側に主体がいるような錯覚を産み出すが、それは人間が人形に自己を投影し、反射している影に過ぎない。しかしまるで生きていたり、全能のように錯覚する先には、恐ろしい危険が満ちている。
 世間で言う「ディープ・ラーニング」は、膨大なWEB空間のその先には人間が書いたり、または発した「言葉」が満ちていると思い、それをまとめた「集合知」を参照しているのだと、多分想定しているのだろう。しかしそこには明快なプロトコルが介在し、操作している。結果(世界に平均的な人間は一人も生きていないように)主体のない「道具」が計算した結果に過ぎないのである。しかし人は、「言葉」を主体の示顕であると見なしてしまう。私たちは「生きていない主体」が発する死の深奥から沸き出す声に耳を貸してしまっているのだ。空虚の中に存在する幻聴である。
 「情報」は「言葉」ではないと理解し、あまりにも「道具」が人間の振りをする事態には、慎重でなくてはならない。過信した果てには、「ラジオ」が産み出したファシズム以上の惨禍が引き起こされる芽が潜んでいると思う。人形の吹くラッパに、殺し合いが起きる可能性があるからだ。
「生」は記録できない。また至極便利なものでもない。日々一回性のなかに、私たちは存在しているのだという、本質を見失う事こそ恐ろしい。

佐野氏の謝罪姿勢に関する妙な違和感

 世間を騒がしている、パクリ騒動についていろいろ考えてみる。
 そもそも一度身体を濾過した表現は、贋作つくるつもりで意識的にやらないかぎりは、中々パクリとはならない。20世紀の最後の数年に、多くのデザイナーも、コピーライターも、肉体性を捨て始め、作業が電子化し、ソフトウェアのプラットフォームで仕事をするようになり、多くの仕事は参照とアレンジの効率化になっていったと思う。スピードも早くなり、制作に費やす時間も、思考も、相対的に低くなる一方で、アウトプットばかりが求められるようになった。それに従ってプロの仕事と素人仕事の境目を、理解できる人が少なくなった感がある。
 作る側は、本来は考え方からはじまりアウトプットに至るプロセスで進むが、アウトプットからアウトプットを想像する、すなわちプリコラージュ(器用仕事)が、より重宝されるようになった。(勿論デジタル以前からあったが)つまりファッションデザイナーに対するスタイリストであり、音楽家におけるアレンジャーのような存在が台頭し、ツールの高度化によってアウトプットがプロレベルと一般的には差を見つけにくくなり、その商品価値も高まったからだと思う。
 またさまざまなICTツールのコモディティ化とともに、世間では権利の登録に関する意識ばかりが増大した。同時に、制作側の論理など知らずに、無料で膨大なアウトプットを享受できる時代になり、情報に関するリテラシーは飛躍的に高まった。
 そもそも日本には、本歌どりや、引用を用いて表現を産み出す伝統というものがある。その感性は、表現を個人に帰する登録というものではなく、文化の共有者に対する寛容さに基づく。しかし忘れてならないのは、元の表現者に対する尊敬の念があることだ。それはフランス語ではオマージュというのに近いかもしれない。そういう意味では、表現物=アウトプットを人から切り離し、まるでモノのように扱う人の品位が引き起こしている問題だと、一連の事柄を理解できるかもしれない。
 
 そこを鑑みると、佐野氏は、登録を侵害した不手際には謝罪の意を評したが、表現をモノ化していることについては、もしかするとネットに落ちている程度の作者に対しては、オマージュの意識はないのではないか。ただモノを拾ったとしか感じていないのではないか。
 
 多弁が過ぎた最後につけ加えるならば、多摩美であるとか、日本のグラフィック業界であるのか、そこには閉鎖的な村があり、村人以外を「人」とは考えないのではないか。ザハ女史の建築の問題でも露見した日本の非グローバル性が、オリンピックというグローバルイベントによりあぶり出されつつあるのかもしれない。
 
 

シテ友枝雄人能 『杜若 (かきつばた)』を観る。

Photo
肌寒く雨の舞う渋谷の雑踏を抜け、東急セルリアンタワーホテルにある能楽堂へ。横には料亭である金田中が店を構えており、能楽堂があるとは、なかなか想像できない場所だ。その晩は、喜多流のシテである友枝雄人が『杜若』を舞った。
『杜若』の舞台は、中世の三河の国(愛知県)。在原業平をモデルにしたと言われる『伊勢物語』を下敷きにして、業平が歌ったというかきつばたの歌「からころも(唐衣)き(着)つつ馴れにしつま(妻)しあればはるばる(遥々)きぬるたび(旅)をしぞ思ふ」と旅の心を詠んだ故事を軸に、杜若の精霊である女のおぼろげな、ゆらぐ詩情が時空を織り込むように展開していく。
物語の展開はダイナミックではなく、登場するのも僧のツレ(助演者)のみである。寒空の二月の東京にいる私が舞いを眺めているうちに、次第に初夏のかきつばたが群生したという中世の八つ橋にいるようなこころもちになっていく。緩やかでありながらも、飽きさせることのないお能である。
能舞台という装置は、いつも彼方に忘れてしまっていた過去に、観客を誘う。同じシテの友枝氏は、来月同じ場所で今度は『隅田川』を舞うそうだ。(人買いから子供を取り返そうとする母親の話である)
来月も、ぜひ観ようと思う。
能の魅力を知る-遠くも来ぬるものかな 梅若忌-
   
開演時間    2015年3月15日(日)
(開場時間) 午後1時00分 (12時30分開場)
演目・出演
おはなし 金子直樹
狂言「宗論」
能「隅田川」梅若丸の母 友枝雄人 (午後3時50分終演予定)
料金
S(正面)席 8,500円
A(脇正面)席 7,000円
B(中正面)席 5,500円
学生(座敷・自由)席 3,500円
※学生席は能楽堂でのみ取り扱います。購入の際に学生証の提示をお願いいたします。

アポフィス (99942 Apophis) 世界は一元化した「共通言語」で人の魂を救済できるのであろうか。

現在は過去の文化の複製を生み出し、そこに文化を感じていることで危うげに結びついている。多様であった文化は、「共通言語」として一元化されていく方向を進んでいる。世界は一元化した「共通言語」で人の魂を救済できるのであろうか。
メディアの技術は「共通言語」を生み出し、世界の知識を一元化しつつある。しかし共通言語は幸せをもたらすのかどうかは分からない。「共通言語」の間で魂は凍りつくかもしれないし、結びつくはずの糸が解けていくきっかけになるのかもしれない。それでも技術は世界を結びつけ、人の魂を浚っていく。蟹の群れを底引き網が根こそぎ浚っていってしまうように。それでも人の魂は、海底に潜む蟹のようにしか生きていけない。
紙はかつて人々の魂に大胆な変化をもたらした。それまでの人は紙によって、別の空間、時間からやって来る他の人の言葉を知らなかった。言葉は人の口から出で、人の耳に入るものでしかなかった。息、体温、その場の空気というノイズとともに、言葉は語られるだけであり、同時の空間の中で紡ぎだされるものでしかなかった。物語も知識も、人の口から膨大な周辺の情報と共に伝えられ、それを人は理解し、その周辺情報の残滓から文化が育成された。神話、方言、さまざまな所作は、そういうノイズを包含しながら真髄であるところの意味を醸成して来たのである。
 
無駄がなくては文化が出来ないと言う真意は、つまりはそういうところにある。酒が菌による醗酵によって生み出されるように、文化は不純物によって醗酵出来る。つまり、余りにも有機的なものなのである。だからこそ、文化は宿木であるところの、人を決して出ることができない。宿木が失われればその文化は死んでしまう。
周囲に存在する人は、文化の伝承者として尊敬され、社会的な位置づけを帯びていた。勿論すべてが優秀な伝承者であったわけではない。副産物として迷信が生まれ、無知蒙昧な人々となっていたことも否めない。十八世紀以降の「文化人」たちは、啓蒙(エンライトメント=光を当てるという英語の方が分かりやすい)と称して市民社会を生み出そうとした昔の人々は、そういう不純物に目をつけて浚っていった。次第に宿木は倒され、無知の別称と共に排斥されて来たのが、つまり近代である。マルクスが自然から疎外された存在としての人間を発見できたのも、まさにそういう現実が顕在化しつつあるのを目の当たりにしたからだろう。
 グーテンベルグの印刷機の発明も、紙の大量生産も、文化の神話性を貶める役割を帯び、やがて写真、映画、音響装置の発明が拍車をかけてきた。テレビとインターネットがあまねく普及した(つまりユビキタスある)現代の市民社会はそういう文化の磨耗のある極点となっている。これは地球温暖化よりも深刻な問題であり、人の生きる意味に関わる問題である。(日本の自殺者の急増も、蓋し文化の崩壊と深刻な関わりがある。)
勿論現在も、企業文化等、「文化」という言葉は周囲に満ちている。しかしその「文化」という言葉は文化のメタファーでしかない。「共通言語」は、政治的な思惑とシンクロナイズし、つまりデファクト化した知性として、最後の砦である言語の障壁をクリアしようと目論んでいる。これも技術の進歩で早晩実現するかもしれない。
そこには不純物は存在しない。純粋な水で生物が死に絶えるようにすべての魂は死に絶えるだろう。その先に残るものは、ゾンビとなった人に過ぎないのではないか。ゾンビにも欲望はあるのだろうか。そこは平準化した死=最大化されたエントロピーが満ち満ちた静かな地獄であるにちがいない。
ネットワークを完璧に破壊する存在以外に「魂」を救える救済者はいない。キリストは再度降臨するだろうか。
 

アポフィス (99942 Apophis) は、アテン群に属する地球近傍小惑星の一つ。2004年6月に発見された。地球軌道のすぐ外側から金星軌道付近までの楕円軌道を323日かけて公転している。
アポフィスという名は古代エジプトの悪神アペプ(ギリシア語でアポピス、ラテン語でアポフィス)に由来する。
2004年12月、まだ2004 MN4という仮符号で呼ばれていたこの小惑星が2029年に地球と衝突するかもしれないと報道され、一時話題になった。その後、少なくとも2029年の接近では衝突しないことが判明している。

核事故の現況:なぜ民主党が収束宣言を野田内閣にて出したのか

1
日経新聞の夕刊に掲載された小さな記事。されど真実は重し。なぜ民主党が収束宣言を野田内閣にて出したのかについては、なぜか日本のジャーナリズムは分析も、批評もなし。収賄やら、枝葉末節の選挙違反等しか追わず。今なお溶け出している核燃料のみが事実であり、その他は果てしなく軽い。
(引用:とはサーチより)
ベクレルをシーベルトに換算するには、人体が摂取した放射能の量(ベクレル)に放射性核種それぞれに用意されている実効線量係数という値を掛けて導きます。さらに、経口摂取(食べる場合)と吸入摂取(呼吸で肺に取り込んだ場合)とでも実効線量係数は異なり、例えば1㎏あたり100ベクレルのセシウム137を飲食した場合には以下の様な計算になります。
100Bq/㎏×0.013μSv/Bq =1.3μSv
さらにこれを1年間摂取し続けると、
1.3μSv×365 = 474.5μSv
となります。
簡単な計算によると、1リットル摂取した場合、(排出がないとしたら)1日当たり16900ミリシーベルトもの被ばくをする。もちろん、量の問題があるので海洋に出ても莫大な水量によって希釈されるだろうが、それでも事実はきちんと認識し、責任の所在は明瞭にしなくてはせっかく活発化した原発に関する議論も、元の黙阿弥である。

『色彩のない多崎つくると巡礼の年』/余剰な身体をめぐる物語。

村上春樹をめぐる欠落した身体、または余剰な身体をめぐる物語。
『風の歌を訊け』には、欠落した身体の象徴として「小指のない女の子」が現れ、このたびの新作『色彩のない多崎つくると巡礼の年』においては、過剰な身体として「6本指」の逸話が登場する。そのどちらも自然ではなく、奇形である。しかし存在しない小指ではなく、切断できるし、また優性遺伝でもある奇形である。その欠落でない不具に関する物語が、主要なテーマである。たいていの場合は、機能しない段階で親が切除する指である。
その6本の「指」に呼応するように、ちょうど登場人物が、高校時代の時間面にアオ、アカ、シロ、クロ、そして「つくる」の5人。そこに大学時代には「灰田」、三十六歳の現在に「緑川」という別の時間面に登場する2人が現れる。
余剰の指をめぐる認識が、つねに主人公である「つくる」のアイディティを揺さぶる指標となっていく。6本目の指を持った女は、電話帳のような分厚い交響曲をつくるに弾かせ、また哲学者である灰田の父に死の重荷を悟らせたジャズピアニストに、かつて存在したかもしれない6本指のイメージを帯びさせる。
身体の欠落は人の関心を引き寄せる。小指のない女の子しかり。しかし過剰な指は切断される。1979年には欠落を物語り、2013年には過剰を物語る。その過剰が死を考えてばかりいた「つくる」ではなく、「シロ」と確定するのは落ちを晒すようなものだけれども。
過剰な存在とは、小指の女の子の持つセクシーさではなく、ま逆にあるシロの孤独な死であることに、村上春樹の「老い」を想う。

アントニオ・ネグリ氏の講演を拝聴し、やがて姜氏を応援する。

『<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』により、世界的に注目された哲学者であり、左翼運動家であるアントニオ・ネグリ氏が初来日した。さまざまな思惑で招聘されたのだろうが、その事情については詳細を知らない。が、国際文化会館にて「マルチチュードと権力:3.11後の世界」という題目で講演があり、USTREAMでも配信され、生の声を聞く機会を得た。
事件を起こし、収監され、アメリカにも入国できないという人物だとあったので、どういう人かと思ってみたが、印象はイタリア人らしい鷹揚さがある左翼だった。プラダのオーナーデザイナーであっても、左翼であった国である。昔、赤い旅団に気をつけろと子供の頃、ミラノでも脅されたのを思い出す。
余談はさておき、元国連事務次長の明石氏と、姜尚中氏が挨拶をし、その後ネグリ氏が登壇した。
まずタイトルもそうだが、3.11を政治的なキーワードにしようとする意味は、そのそも私にはよくわからない。災害は歴史的な事件を引き起こす事由ではあるが、歴史ではない。人間の意思の導かぬものを政治的な象徴として扱う魂胆が、そもそも日本の政治風土というか、政治ジャーナリズムの卑小なところというか、つまりは教養のなさである。日本は奇妙だと思う。
同様ネグリ氏も、災害についてのお悔やみは述べたが、そこが政治的な問題のコアとはまったく話していなかった。(フランス語での講演だった)
まず講演のサマリーを書くとすると、前提として、労働が世界で変容し、物理的な労働から認知的な労働に変化し、グローバリゼーションが一般化した。(つまりは知本主義になりつつあり、オフショアで労働分業されるようになり、過去のハイテクがコモディティ化している現状を思うといい)特にアメリカがイラク戦争とともに衰退し、同時に社会民主主義も無力化した。その世界において、1)欧州における危機(EUの危機、金融の課題)2)ラテンアメリカの台頭 3)太平洋(西太平洋)をめぐるアメリカ、中国の覇権争い。その3つをテーマとして挙げた。
特に欧州においてネグリ氏が述べていた事は、まさに「国民国家」は左翼のフェティシズムとなり、資本家は「国民国家」ではなく、国境を超えている=グローバル化していると、(もはやEUは国家をこえているが)そのなかで政治的な労働者階級の運動が無意味化しているという現実。
個人的な経験からも、実際に欧州の現状は、旧植民地の人々が物理的な旧来の労働力から、資本を持ったり、認知的な労働に従事し、植民地の出身の上司、または会社オーナーが国の根幹を支えているのも事実である。しかも金融も、労働力も国境をを超えている。多分、この状況は、日本で学者や官僚をやっている人には実感できないだろうと思う。ネグリ氏がいうような認知的な労働をする会社は、インド資本で、レバノン人が社長で、英国人が経理をし、ポーランド人が企画をし、オランダ人が営業をし、マーケットは欧州と中東というイメージ。しかも仕事のワークスタイルもWEBによるネットワークで変化しているので、正規社員が少ないし、別に日本のようにそれを問題視することもない。
ラテンアメリカは、ブラジルとアルゼンチンの台頭、そのなかで民族主義に移行する力もあるが、決して古い体制には戻らないとネグリ氏は述べる。そもそも南米はスペイン人に歴史を粉砕されてしまっているので、そもそも欧州の亜流のようなところがある。
そして太平洋(姜氏は東アジアの中韓日と還元したが)は、西太平洋が新しいフロンティアとしてアメリカが偏在し、また欧州、南米、また中東から力をシフトしているとネグリ氏は述べる。それは現在のアメリカの先端は、西海岸の情報産業であることもあるし、いわゆる世界の軸が、かつてはジェノバ、ロンドン、ニューヨーク、そして今は西海岸だという現実だろう。ナショナリズム、覇権主義が台頭する中国との向き合いがどうなるか。ネグリ氏は、中国に対する米国の地政学的なチャレンジがあり、中国に対する不信をベースに、太平洋がどうリバランスされるかという、とても難しい問題と言っていた。
話はとても面白くグローバルだったが、一部の左翼運動家の方々には、なにかにネグリ氏のお墨付きをもらいたいというのが強くあり、閉口した。
対談にて姜氏は、主権者の25%しか自民党に入れていないのだから、あれは国民の意思とはかけ離れているとか言い出し、じゃあ民主党政権も同じだったろと思うが、それはさておき、どうしてこういう政治的アジテートを許すのかが、しかも東大の看板背負ってと、言論空間の質の低さと言うか、政治工作し放題の現状には、まさに日本は自由な国なんだと痛感した。
それでもナショナリズムの高まりがとか連呼し、しまいには反原発、反ナショナリズムですよねとか、ネグリ氏が話している言葉じりから還元した始末。そりゃ、中国、朝鮮が民主的であり、自由な政治風土をもつ、ネットワーク化された国々になってたら、反ナショナリズムもそうだと思うが、反原発はそもそも技術の話であり、そこを核とか政治的なアジテーションの力技に持ち込もうとするのも(いつでも核爆弾作れるからと)知性の瓦解と言わざる得ない。
ネグリ氏の講演を聞いたつもりが、最後に残ったのは、姜さん、日本で吠えていないで、母国、そして中国でがんばってください。心から応援しますから、という気持ちだった。

日本人にとって愛国とは、破壊や暴動ではなく、矜恃である。

愛国の心情を思い、歌を引用する。
おほきみの御稜威輝く日の本に狂業するな癡の漢人(平賀元義)
天皇の御稜威のかがやく皇國にむかつて、何のふざけた眞似をするか、承知をせぬぞ、癡呆の外國人どもよ、といふ意味である。萬葉集に、『いざ子ども狂業(たはわざ)なせそ天地(あめつち)のかためし國ぞ大和島根は』があつて、狂業(たはわざ)の語が入つて居る。/斉藤茂吉 愛国歌小観より。 

2004/9/2 断章

倒錯的な性格ではないから、自殺する人を勝者だとは考えない。それでも世界には偉人にも自殺する人はあり、日本に至っては自死の美学もある。人はなぜ自らを滅するのだろう。第二次世界大戦で死んだ人が日本人で三百万人余りあるというが、それは丁度百年で自殺する人と同じであるらしい。つまりは日常も、百年をかけて緩やかな戦争をしているようなものである。
三島由紀夫、ロラン・バルト、川端康成、ミッシェル・フーコー、ジル・ドルーズ。自殺した文学者は多い。増大する自我の圧力が、存在する力を押し潰してしまうのだろうか。政治的な圧力で死ぬものもいるし、経済的な理由で死ぬものもある。しかし多くの場合、個人にとっての自殺は、自意識の消失点なのではないだろうかと、私は想像する。
過酷な土地に生きるものが常に存在する力を問われているとしたら、安寧のなかに生きる者は蓋し存在する力を問われない。想像する余力のある生活は羨望されると同時に、ある種の生き地獄のはじまりである。存在する力が限りなく弱いなら、自意識を知った瞬間に死んでしまうだろう。
自意識とは、限りない孤独の別名である。そこが思索の出発点であり、見えない他者を探していくプロセスのはじまりである。私はその他の誰でもなく、物でもなく、唯ここにあることの触覚である。その地点に留まり、生きていくことは難しい。
社会的なゲームのなかに身を投じていくことで私たちはひとつのピースとなり、大きな総体を築いていく物となり、自意識を忘れていく。また貨幣の力を信じている人が、自意識に潰されることはない。貨幣を稼いでいく限りは、正しい存在である。
自意識は魔物であり、甘美な誇りという毒で身体を蝕んでいく。時折魔物は身体を去り、やがて舞い戻る。常に働き、身体の力を高めて自意識を追い払うことこそ、唯一の対症法である。働かざるもの、食うべからずとは禅の言葉であるが、そういう暮らしに魔物は存在しない。怠惰、強欲、等、キリスト教のいう七つの大罪こそは、まさに魔物の好物である。

ロンドン滞在にて日本の現況を憂う。

5−6年振りにロンドンに滞在している。
街を歩いていて思うのは、勿論ユーロ圏ではないけれど、欧州経済危機に日本がIMFに金を出すなんてバタバタしているのが無縁に感じる程、別の次元で好況のような気がする。同じような感覚は昨年の韓国でも感じた。日本の現状と一体何がちがうのだろうかと思うと、それは「グローバル」であるという事実だ。
金持ちのインド人、アラブ人が街に溢れ、白人の若者がシュラフに包まりホームレスになっている現実を、国民が普通に受け入れるということだ。ナイトブリッジの高級コンドミニアムが1500平米で100億円以上の価格であったり、5億円の不動産が普通にある都市だ。日本人だと格差だとか叫んでしまい、まったく感情的な閉塞感に陥るのではないだろうか。日本のジャーナリズムに問題があるのかもしれない。
国、人種、宗教に関わらず、機会の平等があり、法人の自由が保障されている都市や国でないと、もはや「グローバル」はならないだろう。少なくとも言語という障壁が日本にはあるのだ。
そこを国家が戦略的に使う事が出来れば(国益となる人材、富裕層の外国人は受け入れる等、企業の法人税をさげる等)消費税をあげたとしても,日本はもっと活況になり得るだろう。