世間を騒がしている、パクリ騒動についていろいろ考えてみる。
そもそも一度身体を濾過した表現は、贋作つくるつもりで意識的にやらないかぎりは、中々パクリとはならない。20世紀の最後の数年に、多くのデザイナーも、コピーライターも、肉体性を捨て始め、作業が電子化し、ソフトウェアのプラットフォームで仕事をするようになり、多くの仕事は参照とアレンジの効率化になっていったと思う。スピードも早くなり、制作に費やす時間も、思考も、相対的に低くなる一方で、アウトプットばかりが求められるようになった。それに従ってプロの仕事と素人仕事の境目を、理解できる人が少なくなった感がある。
作る側は、本来は考え方からはじまりアウトプットに至るプロセスで進むが、アウトプットからアウトプットを想像する、すなわちプリコラージュ(器用仕事)が、より重宝されるようになった。(勿論デジタル以前からあったが)つまりファッションデザイナーに対するスタイリストであり、音楽家におけるアレンジャーのような存在が台頭し、ツールの高度化によってアウトプットがプロレベルと一般的には差を見つけにくくなり、その商品価値も高まったからだと思う。
またさまざまなICTツールのコモディティ化とともに、世間では権利の登録に関する意識ばかりが増大した。同時に、制作側の論理など知らずに、無料で膨大なアウトプットを享受できる時代になり、情報に関するリテラシーは飛躍的に高まった。
そもそも日本には、本歌どりや、引用を用いて表現を産み出す伝統というものがある。その感性は、表現を個人に帰する登録というものではなく、文化の共有者に対する寛容さに基づく。しかし忘れてならないのは、元の表現者に対する尊敬の念があることだ。それはフランス語ではオマージュというのに近いかもしれない。そういう意味では、表現物=アウトプットを人から切り離し、まるでモノのように扱う人の品位が引き起こしている問題だと、一連の事柄を理解できるかもしれない。
そこを鑑みると、佐野氏は、登録を侵害した不手際には謝罪の意を評したが、表現をモノ化していることについては、もしかするとネットに落ちている程度の作者に対しては、オマージュの意識はないのではないか。ただモノを拾ったとしか感じていないのではないか。
多弁が過ぎた最後につけ加えるならば、多摩美であるとか、日本のグラフィック業界であるのか、そこには閉鎖的な村があり、村人以外を「人」とは考えないのではないか。ザハ女史の建築の問題でも露見した日本の非グローバル性が、オリンピックというグローバルイベントによりあぶり出されつつあるのかもしれない。
佐野氏の謝罪姿勢に関する妙な違和感
文化・芸術
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