9月11日選挙、あるいは「お上は死んだ」

選挙には足を運んでみた。
選挙に行ったことがないと豪語しながらも堀江氏が出馬した件でも明らかなように、今回の選挙の争点は明確だった。郵政民営化により、ようやく日本が明治維新後から続く、中央集権主義から脱却していくということだ。つまりは「お上は死んだ」、正確には死につつあるのである。
団塊の方々は、いまでも「お上」が欲しいらしい。筑紫哲也氏を典型とする旧左翼系のジャーナリストにとっては、批判する対象の消失であり、いつまでも「お上」の監視がジャーナリズムの仕事だと、いつまでも国民=大衆と愚弄している。自分たちのような東大を出た頭の良い人が一生懸命監視しなくては、社会矛盾を大衆は見つけられないと信じている。でも私は、彼らのニュースほど主観に満ちた情報操作はないと感じる。客観を装い、誰もがうなずかなくてはいけないような踏み絵を使い、自分たちを正当化しているように思う。
十年前に東欧の社会主義国が崩壊したとき、東欧の諸国にメディアの自由があっただろうか。彼らは国を超えて飛んでくるラジオから情報を得ていた。現在の北朝鮮もしかりである。情報を遮断する権力など、現代の社会には不可能なのである。しかも今はインターネットも存在している。
現代において、国を誰が持っているかは明確だろう。それはいうまでもなく国民である。社会資本の大方は国民にある。別に聡明な先導者が、搾取された資本を奪回するための策を練る必要もなく、みんなが資本を持っている状況である。そして今回の選挙では、もっと国の資本を開放するということである。
それなのに、旧左翼系の方々はなぜ反対するか。それは彼らこそ「お上」を信じているからだ。
19世紀末、ニーチェは「神は死んだ」と書いた。教会の支配が強い時代だったからこそ、その神の弱体化を意識できたのである。しかし、誰も信じなくなったら、そんなことを言う必要がなくなる。「それってどういう意味」とメッセージが空虚化していく。
私は中央集権的な国家など必要ないと思う。もし自民党が翻ってそういう方向になるなら、それは問題だと思う。しかし、本当だったら国の資本を開放するなんてことはしない。
夏目漱石以来問い詰められきた近代という問題について、ようやく現実的な解答が出てくるのかもしれない。
個人は個人で苦しみ死ぬかもしれない。でも共同体の幻想に逃げることはもう不可能であると社会現象が、(現在の自殺率の増加しかり、犯罪の特殊化しかり)雄弁に語っている。
いまもナロードニキを夢見る老人たちと、借金の話はしたくない。
<tokyotaro>

コメント

タイトルとURLをコピーしました