民主党の小沢代表が「連立政権」構想のなかで迷走している。
その最中にトヨタの売り上げ世界一の話と、GMが4兆4千億円もの赤字を出したという。
トヨタ自動車が7日発表した平成19年9月中間連結決算は、売上高が前年同期比13・4%増の13兆122億円、本業のもうけを示す営業利益は16・3%増の1兆2721億円、最終利益は21・3%増の9424億円となり、中間期として売上高は8年連続、利益は2年連続で過去最高を更新した。アジアや中南米など新興国での販売が好調だったほか、為替の円安効果も利益を押し上げた11月7日21時16分配信 産経新聞
売上高は米ゼネラル・モーターズ(GM)の4~9月期の数字を上回り、中間期の売上高でトヨタが初めて「世界一」に立った。
確かにアメリカは製造業でなりたってはいない。貿易収支は赤字であるし、世界からの金が流れ込むことで一応平静を保っているに過ぎない。その一方、世界一のマーケットであり、また軍事大国である。
同時に、日本国内は高齢化社会で自動車産業も含めての需要は芳しくない。またアジアを含む地域においての、特に北アジアにおける覇権は、中国、韓国の著しい成長に押されている。つまり日本の軍事・政治的な状況は、前門の狼、後門の虎といっても良い。原油は1バレル:100ドルに達する勢いになり、その余剰金がアメリカの生命線となり、そのマーケットを狙って中国、日本、韓国はしのぎを削っている。
労働力の減少と、日本に流入する資本の相対的な減少が国を抜本的に蝕んでいる。いまでは中国国内の株式市場の総額は、東証の総額と遜色ないのだ。つい十年前には考えられなかった状況である。
高齢化社会という国内マーケットの衰退とともに、日本企業の海外へのシフトが高度な段階になってることを、この「トヨタの世界一」という事態において明確にしたと思う。民主党の迷走は「連立政権」という、政治的空白を解消する手段を模索するプロセスで起こった。国際的な変化のスピードは著しく、もはや、政治的な云々という物語を受容できるほど、日本に余裕はない。意思決定のプロセスは迅速化されなくてはならない。
格差を解消するために法人税を高くしたり、無駄な公共投資をする余裕はなく、もはや日本型の社会主義体制は崩壊している。トヨタは日本の企業ではなく、グローバル企業なのである。モノとしての企業(株式)だけでなく、人としての企業も脱日本人化している。
高齢社会は郷愁の社会である。過去の仕組みを回顧し、そのなかにいいものがあると夢想する。最近の「昭和」への追憶ブームも同様である。過去は美化されるのみだ。昭和三十年代は決して『三丁目の夕日』ではなく、戦後の暗闇が潜んでいたことを皆は忘却している。
トヨタが世界一になったことは、日本が世界一であることの象徴ではない。日本人にとっては、いまこそ危機であるという意識を持たなくては、亡国の期が迫っていくのだと痛感するべきだ。
ホワイトカラー・エグゼンプションは復活するのか?
エゴイスティックな人々たちが、矢鱈日本には蔓延っているなと痛感するこの頃だ。
近年日本を瓦解させようと企んでいる法律が多いと思う。なかでも恐ろしい悪法だと私は思うのは、ホワイトカラー・エグゼンプションだ。サラリーマンの評価を、時間から成果へと変革させる法律として立法し、ワーキングスタイルからの自由な社会を実現するのだという。本当に笑止千万だ。
いったい日本の社会においては、真っ当な近代人もしっかり確立していないというのに、そんな自由な個人として会社と対峙する人格があるとは到底考えられない。
TV等でも有名な財部 誠一氏は、以下のようなコメントをYahooニュースに残している。
そもそも人間には、それぞれペースがあり、生きるスタイルがある。だが宮仕えをする以上は、組織に自分を合わせることが強要される。無理が過ぎれば、仕事の効率が落ちるばかりか、精神的にも追い込まれる。
私は20年以上、職業として原稿を書いてきて、つくづく思うことがある。それは人間の脳は24時間、均一なレベルを維持することができないということだ。脳も疲れる。疲労がたまれば、効率が落ちる。そもそも私の脳は朝型で、午前中でなければ良い原稿が書けないという強迫観念すらあるほどだ。だから私は夜中には原稿は書かないし、徹夜もしない。どうしても〆切に間に合わないようなら、3時間でも4時間でも一度寝てしまう。そして朝早く起きて、それからまた書く。逆に、午後3時前後に私の脳の活動はもっとも停滞するので、できるときは20~30分の仮眠をとる。そういうスタイルを私は20年以上、続けてきた。
<中略>
これからはサラリーマンもそういう生き方をすべきではないだろうか。どんなに忙しくても、自分のペースとスタイルを守ってさえいれば、少なくとも精神を病むような事態には至らないないだろう。それよりもなによりも、作業効率は格段に上がるはずだ。ホワイトカラー・エグゼンプションはまさに、この点において大きな役割を果たしうると私は考えている。その是非を、「カネ」の議論に終始せず、サラリーマンの「生き方」という視点から考え直してみる必要があるのではないだろうか。
そもそも彼のように高い能力もあり、自己管理で生活できる人は稀である。
確かに経営する立場からは、経営のリスクとなる人的資源の固定化及び高コスト化を改善したいのは当然である。だが法の理念の根拠がまるでファンタジーでは、労働者は納得できない。どこの会社に、自分が自由に選べる仕事があるのだろうか。そして利益部門が無限にある会社があるのだろうか。まるで空飛ぶ絨毯があったら、飛行機はいらないというようなものである。
時間も、労働内容も恣意的に決められ、また経営戦略の意識が乏しい日本企業に導入された際には、社内政治の強化=会社内のいじめが多発化するだろう。現実的には、企業内に適正な評価をする基準など、明確にないのである。だから長時間働きたくて働く人はいないのだから、それが本人の責任だと問うなど不可能である。
起業家であるとか、文化評論家という人間たちは、サラリーマンの現実を知らない。また日本の文化的な土壌に個人主義は育ちにくいことも分かっているのだろうか。
蓋し政府が外国政府の傀儡であったなら、買収しやすいように下草を刈るのも無理はないが。
tokyotaro
「意味するもの」を失った記号と、感情的なメディア
メディアという言葉を知らない人はいない。
しかしその意味がなんであるかを理解している人は少ないと思う。
メディアとはなんですかと質問した場合、一般的な社会人だったら、多くは新聞、雑誌、テレビ、ラジオと回答するだろう。そして最近では、インターネットもメディアとしては強くなってきますよねと。メディア=マスコミという構図がいまでも根強くあると思う。そこで私も、そういう意味でメディアという言葉を使ってみる。
そのメディア自体、権力の構造に組み入れられているといわれて久しい。それでも報道の自由をめぐる争いでは、メディアは権力を監視するのであり、自由は保障されるべきだという正論から、国家戦略に同調する放送をNHKですら拒絶する側面がある。
メディアは本当に国民の意思に基づく、意志を表象しているのだろうか。ちょうどそんなことを考えている時、2002年にノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマン氏が「利用可能性に基づく思考」において、人間には「思い出しやすいものほどよく起こっている」と考える癖があると説明したことを、青山学院大学の鈴木教授のコラムで知った。鈴木教授によると、メディアが少年犯罪の増加を訴えるが、1960年以降実際の件数は激減しているのだそうだ。
確かにその当時の方が、ネットも存在していないのだから告発されることも少なかった。蓋し、現在よりもはるかに少年犯罪は多かったのだろう。現在では小さな告発がネットで増幅され、そしてメディア=マスコミに繋がるというパターンが増加している。
最近これをしてはいけないというような、紋切り型の規制が多くなっている。そしてその観点から、いじめ、少年犯罪、飲酒運転のような日常の犯罪が、日本では何よりも大事のように騒がれる。しかし目を中東に向ければ、一日100人以上がテロで殺され、飢餓と貧困で死亡する幼児はアフリカに溢れている。しかしそれらの惨事は忘却される。それはメディアにおける「思い出しやすいもの」でないからに他ならない。
「意味するもの」を失った記号がメディアには散乱している。さいきん話題になった崖に登った野犬を市民が救う美談があった。その犬には91件の里親志願がいるという。しかしその野犬の後ろ側には、殺され、捨てられる数万の犬たちの存在は忘却されている。
「繰り返されるもの」=「思い出しやすいもの」をメディアが増幅し、感情のスパイラルで国民が動いてしまう現状こそ、なによりもそら恐ろしい。
靖国をめぐる内政干渉を考える
現在の私たちの生活は、第二次世界大戦における多大なる犠牲のもとに成り立っています。これは紛れもない事実です。国を守って亡くなった方々を祀る感情は、まさに正しいのです。
しかし靖国神社における問題に関しては、1980年以降(A級戦犯の合祀以降)次第に注目され、特に小泉首相の参拝には中国の批判が絶えません。当然の行為が責められる理由は、ひとつは歴史認識であり、ひとつは宗教観の違いです。
当時、思想の問題、経済的な問題、人種的な問題等さまざまな課題がありました。当時日本は「近代の超克」を掲げ、西欧からの自律性を主張しましたが、その考えは完全に駆逐されたという点が、その敗北の意味する所です。日本の姿勢は、多くの有色人種の自律を促しました。しかし日本では、霧散してしまいました。敗北までは、確かにその骨格としての「装置」として、靖国神社は機能し、また当時の天皇制も機能していました。
日本の宗教的な背景は、「やおよろずのかみ」であって、包容力の高い宗教性を有した国民であり、だからこそ、仏教、イスラム教、キリスト教に関しても偏見なく、受け入れてきたという歴史があります。(江戸時代のキリスト教徒の弾圧は、まったくの政治的な問題です)だからこそ、祟りを恐れて祀ることもあり、また英雄を祀ることもあり、しかも日本人が霊性を感じるのは、山、滝もあり、人においてだけでもありません。
しかし戦争中、国体を強固なものにする目的で、本居宣長のいう「やまとごころ」と「からごころ」を一緒くたにしてしまった。平易に言えば、「やまとごころ」はゆるやかな集合意識=「やおよろずのかみ的なもの」、「からごころ」は文化された骨格=「中国・韓国からの大陸的なもの」でした。
蓋し、靖国問題について、中国は「からごごろ」から批判する。日本は「やまとごころ」から納得がいかない。なぜなら当時の国家システム=「装置」は、六十年前に消滅しているからです。
では中国の言うように(政治的に)、またその「装置」が復活しうるのでしょうか。私はあり得ないと断言できます。なぜならもはや、「近代の超克」を意図したときのような、歴史的な意義は世界から喪失しているからです。
1990年代に冷戦は終結しました。それから十五年、天皇制も、憲法九条の問題も再度検討し、それから日本は新しい装置を構築する局面を迎えています。(なぜなら現憲法・体制は、アメリカの冷戦シフトの産物だからです)それがどういう形であれ、民主主義国であるのだから、議論をし、国民に提示されていくべきです。
確かに中国的な考え方では、国家元首の参拝=装置の復活に繋がるという図式になります。それならば、パラダイムのギャップを埋めるべく現実的な解決を促すべきです。少なくとも中国の歴史教育の転換とセットで話し合うべき問題であるはずです。
日本は中国に関して、一方的に譲歩する必要はありません。説明していくことしかないのです。譲歩するということは、その批判を認めることです。納得もしていないのに認めることは、絶対に正しくないのです。それは一時的な納得を促しても、経済面も含めて、将来大きな禍根となるでしょう。
※歴史的な背景について、イギリス人の歴史家クリストファー・ソーンが、『太平洋戦争とはなんだったのか』において非常に公正な視点で歴史を語っています。(偏向なく歴史を知るには良い本です。)
<tokyotaro>
イスラエル・テロリズム・希望
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「暴力はただ暴力に抗する場合にのみ正当化される」と、十九世紀末にロシアの無政府主義者、バクーニン等は言った。ロシアの帝国主義に対する方法として、テロリズムというコンセプトが発明されたのである。
以来政治的な手法としてのテロリズムはメディアの台頭とともに拡張された。なかでも9・11のアメリカ帝国主義への拮抗として、アラブ人過激派が貿易センタービルを破壊した事件の効果は凄まじいものだった。
アメリカ人にとっては、間違いなく9・11は歴史的な転換点である。強大な軍事力も、自国攻撃の危険を避けることができないことを自明にしたからである。高度資本主義社会にとって、城壁は存在しない。(グローバルなネットワークを閉じたら、早晩アメリカは潰れてしまう)
そしてブッシュ大統領の主張する「対テロ戦争」というスキーム(テロリズム自体に対抗するという計画)が実施されるのだが、それは一方で帝国主義の強化=権力による正当化されない弱者への弾圧であることも事実である。
やはりそこには、南北の格差という問題が大きく残っている。グローバリズムに準拠する先進国である限り、テロリズムというウィルスを完璧に除去することはできないだろう。しかし暴力という方法でなく、オルタナティブな方法を模索できるとしたら事態は変化するかもしれない。
そのひとつの形として、イスラエルのガザ地区よりの撤退が実施されている。希望を感じさせる政策であり、ブッシュ大統領の意志が感じられる。確かにいままでの行動が、まるで病原のウィルスを除去しようと、ピストルを自分に向けて撃っていたようなものだと気づいたのかもしれない。
この問題は別にブッシュ大統領=アメリカ人だけの問題ではない。アメリカ合衆国の傘のなかにいる日本人にとっても避けることができない問題である。
政治的に難しい局面であるが、だからこそ、パレスチナ人をサポートしていく役割を日本は担うべきと思う。国連における地位云々ではなく、世界第二位の経済国(世界の資源を消費している大国)としての義務であるし、また同じアジア人として捨て去るべきでない。
宗教および政治体制の問題をどうこう言うのは、核心を逸らしてしまう。急激に、世界は富める者とそうでないものの対立になっている。蓋し、メディアの発達がその不満を加速させている。
その問題を真摯に考えなくてはいけない。<tokyotaro>
広告という幻想
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マールボロマンが表参道から眺めるビルの屋上に屹立していたのは十年少し前になるだろう。外国のたばこが上司の前では吸えないという声もあった時代である。(これは嘘のような本当の話です。)
当時、僕は広告代理店の仕事でマールボロと関わっていた。こういうアメリカの文化を売りつけるイメージ戦略の凄さをダイレクトに経験したことで、僕は世界を見る見方が変わった。世界はイメージが現実を凌駕し、そのイメージの中で世界の人々の心がコントロールされているのだと。
90年代のアートは引用(アプロプリエーション)アートが全盛となり、世界に偏在する広告・商品のイメージが最大限に活用された。道にある看板、アニメーションのキャラクター、テレビの画面、雑誌の広告等々、街に溢れている凡庸なイメージをアーティストは自分のアートに引用したのである。
僕はその流れを見て、ポップアートが台頭した頃のシニカルな批評性とは違う地平にあるのだと知った。もはやアーティストの頭のなかにも、そういうイメージが巣食ってしまい、もはや彼自身なんて何処にもないのだと。台本を演じているつもりの役者が、気がついたら役が自分になり、世界が台本のなかに吸い込まれてしまったように。
インターネットは世界を欲望の織物で包み込むくもの巣(ネット)である。いままでは戦略家が書いていた脚本も失われ、世界は自己増殖する台本に溺れてしまい、もはや脚本家は何処にもいないのかもしれない。
くもの巣のなかで、僕らは何をしているのでしょう。何処かに僕たちを食らう毒蜘蛛がひそんでいるのかもしれないのに。<tokyotaro>
