指先が躊躇う。黒電話のひんやりとした感触。
耳を黒電話の受話器にあてる。ぽわんと外の空気から離されて、ツーっという音が響く。電信柱。その電話線を通って遥かかなたの交換機を通じ、その先にある漁港に通じる道を通り、田園に広がる里山の森のひっそりとした小道を駆け上がった先へ。やがて森を切り開いた丘陵にある彼女の家の電話に繋がっている。
赤いトタン屋根の下で家族たちは歓談しているかもしれない。その廊下ではひっそりとキルティングの服を着た黒電話が鳴り響くのを待っているだろう。私の心が高鳴る。
0番のダイヤルがジリジリと戻る、その一秒半くらい。心が惑う。指をそえた受話器の置きのバネの感触が伝わってくる。電話をかける勇気が十分でなかった私は、切ろうか切るまいかと、人差し指と中指に力をこめていた。やがてトゥルルトゥルルと呼び出し音が聴こえる。
ガチャ。
「どちらさまですか」
と彼女の母がでた。
「…さん、いらっしゃいますか」
「ちょっとお待ちください」
置かれた向こう側の黒電話。向こう側から聞こえてくる部屋の音。ドアの開く音。足音がする。彼女の母の声が響く。彼女が近づいてくる。
「電話くれたんだね」
その瞬間、黒電話から耳のなかへ、彼女の体温がやってきた。
それから七年の恋をして別れ、この電話番号を思い出したのは昨日のことだった。あれから二十年が経っていた。昭和五十九年に高校生だった私は四十を過ぎ、偶然開いた当時のアドレスブックにその電話番号を見つけた。
今日私は、その番号に電話をかけた。ケータイ電話に番号を入力し、発信ボタンを押した。もう指が二十年前のように躊躇うことはなかった。
「おかけになった電話番号は現在使われておりません。番号をご確認いただきもう一度…」
テープは反復する。まるでこだまのように。そして私の切ない追憶は、深い闇とともに次第に、そして緩やかに消えていく。
短編小説:『テープは反復する。まるでこだまのように』
文化・芸術
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