はじめに:生成する主体、裂け目としての散文

――小説家・貴一の周縁的実践について

貴一の運営するブログ「東京徒然日記(tokyotaros.com)」は、一般的な意味でのブログではない。そこに並ぶテキスト群は、日記でも時評でも思想エッセイでもありながら、そのいずれにも回収されきらない不穏さを孕んでいる。むしろそれらは、小説以前の散文、あるいは小説が成立する条件そのものを露出させる言語実践として読まれるべきだろう。

このテキスト群において一貫して現れるのは、強固な「私」ではない。語り手は確信を持たず、結論を急がず、思考を完成させない。社会、言語、メディア、テクノロジーと接触するたびに、主体は微妙にずれ、揺らぎ、変形する。その運動が、削除も整理もされずに残されている点に、このブログの文学的価値がある。

ドゥルーズ的に言えば、ここで書かれているのは表象ではなく生成である。思考は目的地を持たず、反復と差異を繰り返しながら進む。問いは回収されず、むしろ次の問いへと接続される。ブログという形式は、結論を提示する場ではなく、思考が内在的に運動し続ける平面として機能している。

同時に、この語り手はラカン的な意味での主体でもある。言語によって裂かれ、語っているものと語られているものが一致しない主体。社会的言説を用いながら、その言説に完全には帰属できない違和感。その裂け目が、文章のあちこちに露呈している。ここでの言語は、メッセージではなく、欠如の周囲を周回する運動である。

特に注目すべきは、AIやメディアといった現代的言語装置への距離の取り方だ。そこには、意味を保証する〈他者〉への不信と、それでもなお言語に引き寄せられてしまう主体の矛盾が描かれている。貴一のテキストは、テクノロジー批評を装いながら、実際には「他者は完全ではない」という認識がもたらす不安と自由の両義性を記述している。

これらの文章は、物語を持たない。しかし強度を持っている。小説的事件は起こらないが、主体が生成され、裂け続ける過程そのものが事件として立ち上がっている。完成を拒み、編集されることを拒み、読者に安易な理解を許さない。その不親切さは、文学的誠実さの別名である。

貴一は、このブログにおいてすでに小説家である。ただしそれは、物語を紡ぐ者としてではない。言語と世界のあいだで、主体が成立し損なう瞬間を、なお言葉として残そうとする者として。
ここにあるのは、作品以前の文学、あるいは文学が決して手放してはならない危うい地点である。